2009年11月30日月曜日

行政刷新会議の事業仕分けなんて、甘い!



内閣設置の行政刷新会議によるいわゆる事業仕分けに対して、官僚や各界からの反対が相次いでいる。

例えば、オリンピックの強化費の補助削減に反対するとか、ノーベル賞学者が科学技術振興費の削減に反対したり、とか。

誤解を避けるためにあらかじめ言っておこう。DOTは現政権の内閣が設置した行政刷新会議やら、それがやっている事業仕分けとか、そんなものは一種の茶番に過ぎないと考えている。税金の無駄遣いをカットしても、それを他の無駄遣いのために使ってしまうから、茶番なのである。国民には何も戻ってこないから、茶番なのである。

しかし、政府の無駄遣いをカットする部分については賛成だ。例えば、上記のノーベル賞学者の記事にこういう発言がある。

「資源のない日本で科学技術への投資を怠っては日本の将来はない」 「費用対効果では量れない事業も多い」

こんな馬鹿げた意見は意見でも何でもない。論理がはじめから破綻している。

一見、「資源のない日本で科学技術への投資を怠っては日本の将来はない」ことを反論することは難しいだろう。科学技術がなくなれば、生産性が低下するからだ。だから、科学技術への投資を怠ることはできない。しかし、このことと事業仕分けが必要だということと、どう関係あるのだろうか? まったく無関係ではないか。投資が有効に行われているかどうかを検討して有効な投資に税金を振り向けるのが事業仕分けではないか。有効でない投資は日本の将来を危うくするからだ。

「費用対効果では量れない事業」というのは、次の内のどちらかだ。

A 費用対効果がない。
B 費用対効果を定量的に表現できない。

「投資」であるというからには、Aは事業仕分けでカットすべきだ。税金の無駄遣いだからだ。
Bについては、定性的な効果を定量化する表現手法を工夫する努力が足りないか、定性的な効果を説得力をもって説明する能力が欠如しているか、のどちらかだろう。どちらにせよ事業仕分けでカットされても文句は言えない。

ノーベル賞学者もスポーツマンもこんな単純なことも分からないはずはないと思うのだが。

そもそも、歳入よりも歳出がはるかに多く、歳入以上の額の国債を発行せざるをえない国が、オリンピックだか科学技術振興だか、そんな偉そうなことは言えないのだ。その現実を直視しなければならない。

国債の大量発行は、すなわち国民からの強制的な搾取を意味する。国債発行と徴税という2つの強権的かつ暴力的な徴発手段を政府から取り上げなければならない。

したがって、DOTは次のように主張する。
  1. 憲法を改正し、段階的な一切の租税の廃止と国債を含む新たな借金を行う権利の政府からの剥奪を行う。
  2. 日本銀行は、将来的に不換紙幣の発行を停止するための計画を進める。金属資源との兌換紙幣発行の準備を長期間行い、最終的に実行する。
  3. 2.は国債の償還と並行して長期的に行う。
  4. 国債の発行は段階的に縮小し廃止する。
  5. 歳入・歳出の双方を段階的に縮小する。
  6. 政府と地方自治体の事業を段階的に縮小し、民営化する。
  7. 自衛隊・警察・消防などは、地方自治体に移管しつつ、段階的に民営化を進める。
  8. 50年間程度の期間の内に、一切の国家による租税を廃止する。
DOTにとって、事業仕分は甘すぎる。本当は、政府による事業の全面廃止が必要なのだ。

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2009年11月8日日曜日

最近のニュースについて



民主党政権はいわゆる普天間基地移転問題で米国から既定路線を踏襲するよう圧力を掛けられている。そんな状況で、岡田外相は、県外移転の可能性を否定した。嘉手納基地に統合する案を主張しているようだが、これは米軍が拒んでいる。他方で、北沢防衛相は、嘉手納基地への統合は困難という判断だ。

自民党は、当然、閣内不一致を突いてくる。嘉手納基地周辺住民は嘉手納への統合反対を訴える。

混乱状態のように見えるが、実はそうではない。自公政権が米国と結んだ約束を見直すことは新政権としては当然ありうることだ。沖縄の基地の負担を軽減することを重視する鳩山政権が米国の言いなりになる方が、むしろおかしい。

外相や防衛相の言うことは、妥協策を練っている時に出てきたもので、最終結論でないことは明らかだ。それぞれの立場で一番問題の少ないと考えられることを発言しているに過ぎない。

だから、今の「混迷状態」も「閣内不一致」も、当たり前の状況であって、何もおかしくはない。問題は、次の段階でどのような決断を政府が行うかである。鳩山政権はDOTではない。だから、おそらくは最終的には既定路線どおり、というシナリオを描いているのかもしれない。その蓋然性は高い。

しかし、それはおそらく最悪の政治的決断だろう。そもそも普天間基地移転というのは、沖縄の基地の負担軽減を目的としていたのであり、民主党が県外への移転を主張していたのであれば、県外に移転するしか、政策的にありえないではないか。では、どこに移転するのか?

まず、九州・四国・本州・北海道などへの移転には米軍が反対するだろう。台湾や東南アジアから離れてしまうからである。ほとんど平坦な陸地のない日本周辺で、沖縄ほど戦略的に良い場所はないのである。では、沖縄外の周辺に好適地はあるか。あれほど広い島は他にない。したがって、県外移転は次の方法によるしかない。

1 移転ではなく、基地の削減
2 米国あるいは台湾や韓国領への移転
3 人工島嶼の建設
4 巨大空母の建設

このなかで実現可能性のあるのは、1だけだろう。つまり基地を削減するしかない。ここでも2つの選択肢がある。

1 日米安保条約を破棄する
2 日米安保条約を維持する

1を選択すると、おそらく次の選択肢は3つ。

1 日本が核武装し、自衛隊を増強する。
2 道州制を導入し、国防はそれぞれの道や州にまかせる。連邦軍を保持しない。
3 非武装中立路線をとる

3は、かつての社会党路線だが、社会主義諸国の崩壊とともに現実性がなくなっている。1も非現実的だ。核実験を行う場所がないし、それ以前に米軍あるいは中共軍によって粉砕されるだろう。

そこで、2の可能性を見てみよう。ただし、これには憲法改正が必要となる。この道州制が実施されると、中央政府(あるいは連邦政府)は、儀礼的な意味しかもたなくなる。保守的な人々は、そこに神話的世界との精神的な結びつきを見出すかもしれない。日本はまさに日の本の邦に還る。各州政府は日の丸と日本神話だけを精神的な紐帯として連帯する(州民それぞれの思想信条の自由は当然確保される)。

例えば、沖縄州政府は米軍基地を放逐しようとするかもしれぬ。それを実現するために州政府が他国と同盟を結ぶ可能性もある。そこには軍事的衝突の危険があるが、リスクの評価は州政府に委ねられる。逆に米軍基地を何らかの形で容認するかもしれぬ。

沖縄だけでなく各州は、それぞれに独自の軍事的・非軍事的な決断を迫られるだろう。そうしなければ、米軍が自らの東アジアにおける軍事的なプレゼンスを維持するために進駐してくることは明らかだからである。ある州は米軍と同盟あるいは不可侵条約を結ぶかもしれぬ。ある州は他国と同盟するかもしれぬ。まれには、その混沌状態の中に一種の真空地帯としての非武装・不可侵の特権を確立する州も現れるかもしれない。外見的にはこれは日本の国家としての解体なのだから、米国だけでなく中国やロシアや韓国・北朝鮮による軍事的干渉もありうる。その状況で、約束の地を、どこか日本以外の地に求める州民も現れるかもしれない。州民は州政府自体を解体して、自治的村落共同体に還元させる決断をするかもしれない。この状況は、混沌だろうか。本当に日本の崩壊と言えるのか。いや、逆にその混沌の内から、日本を精神的に蘇生させる可能性が見出せるかもしれない。そこでは、誰も「日本精神」が何たるかを押し付けたりはしないからである。

国家や軍隊が、精神主義や理想主義と結びつく時ほど恐ろしい時はない。歴史が教えるところだ。なぜなら、精神主義や理想主義を、国家機関や軍隊組織という最も醜悪で自動機械的でしかも現実的な手段によって具体化させようとするからである。それはファシズムである。ならば、各個人が国家や軍隊から離れれば離れるだけ、精神と理想を各個人の内心に保持できるはずではないか。それは、精神の堕落ではなく、むしろ純化ではないか。その時はじめて、「防衛」や「自衛」という行為の意味が、制度や非人間的な自動機械から奪還されて、人間の本能的な自己保存と結びつけて論じることができるようになるはずだ。銃を取るべきか否かを判断できるのは、その時でしかない。政府が若者に赤紙を送りつければ済む問題ではないのである。

日米安保条約を維持する選択は、もっとも安易な選択である。それは問題の永続化にしかならない。第一の問題は、日米安保条約そのものではなく、安保の維持がもっとも現実的な方法に思えてしまう、日本人の精神状態ではなかろうか。それは単なる利己主義と自己撞着でしかない。