2009年5月31日日曜日

いわゆる改革派について

いろいろな大臣を務められた竹中平蔵氏は、いわゆる小泉内閣での改革を推し進めた人物として評価されている。自由主義的な(部分的にリバタリアン的な)政策を行おうとしたと巷ではいわれている。そのため、社会主義者やリベラル派からは批判されることが多い。しかし、ここでは、竹中氏個人の業績について論評するつもりはない。

竹中氏や小泉氏のように、与党にあって「改革派」と呼ばれる政治家が行った「改革」が、本当に政府の機構と権力の縮小、つまり「小さな政府」を作るにあたって成功したのかを確認したいのだ。つまり、政府は小さくなったのか、という点だ。

何も小さくなっていない。財務省の資料を見ればわかる。
一般会計における歳入歳出の状況

一般会計は2000年代に入ってからずっと高水準で推移している。2006年度に低下したものの、以後増加傾向にある。小泉内閣が大幅な歳出削減を行ったと断定できるような材料は見あたらない。また、財務省のQ&Aを読むと、特別会計は「近年は減少か傾向にあります」とあるが、それは国債の償還や社会保障費などを除いてはじめていえることなのだ。つまり、政府予算は減少せず、国債償還や社会保障費の増加などで、自縄自縛の傾向にあるわけだ。

国家予算が減少傾向にあるとは、到底いえない。それで改革派といえるのか。

竹中氏や小泉内閣を持ち上げて、まるで自由主義者の英雄であるかのようにいう人がいるが、それは違うのだ。彼らの「改革」は政府を小さくすることに役立ってはいない。

もちろん、彼らの主張が政府のさらなる肥大化にあるとはいわない。しかし、彼らの「改革」がもっと成功していたとして、国民は何を得られたというのか。これは、最近のバラマキ予算にもいえるが、財政の改善と引き替えの増税である可能性が高い。

「改革」の代償が増税なら、彼らが主張する自由化や民営化は、あくまで政府の改革であって、国民生活の改善のための改革でも、自由化でも民営化でもない、ということになる。彼らは、機能的で効率的な政府を作ろうとしているだけなのだ。政府による国民からの収奪を阻止するための改革ではないのだ。彼らの「改革」は国民のためにならないのだ。それは、自由主義者のいう「小さな政府」ではない。偽物の改革だ。偽物の自由主義だ。

さらに重要なことは、巷間で「改革」を主張する政治家やマスコミや経済学者の99.99999999999%は、この手の似非自由主義者、似非リバタリアンといえるのではないか。政府や官僚を批判し、「改革」で人気をとるが、それは権力を掌中にする手段でしかなく、ずっと政府権力を温存し続けるだけで、政府の縮小には何ら貢献しないのだから。

そういう手合いに騙されてはならない。いわゆる「改革派」の主張は、ラディカルな思想に根ざしてはいない。体制迎合であるか、よくて折衷主義である。それは、自由主義ではない。

自由主義は、歴史的に、本来ラディカルな思想である。アクトン卿の言葉を引用する。
Liberalism wishes for what ought to be, irrespecttive of what is.
自由主義は、存在しているものではなく、存在しなくてはならぬものを希求するのだ。
(Himmelfarth, Lord Acton, p. 204).
DOTは似非自由主義を廃し、真の自由主義を指向する。

裁判員制度は廃止すべきだ

裁判員制度なるものが始まった。すでに裁判員制度や陪審制度の議論は尽くされている。歴史が長いからだ。だから、DOTの主張は単純である。長い議論など不要である。

裁判員制度は廃止すべきだ。

なぜか、それは、一部の免除規定にあてはまる場合を除いて、政府権力が強制的に裁判員として徴用し、一律の日当しか支払わないからである。本人の意思を無視し、労働条件を勝手に設定して使役するわけだから、これは徴兵制度と同じ強権の発動であり、個人の自己決定権の剥奪であり、国家による
と労働の強制であり収奪である。

裁判員として働いて欲しければ、公募をして、その作業内容と労働条件に合意し自発的に裁判員になりたい人間を採用すればいいのだ。

裁判員制度は、徴兵制度のリハーサルのつもりなのかもしれない。即刻廃止すべきだ。国民は政府の奴隷ではない。

これが、DOTの考えである。難しく考える必要はないと思う。いかがかな?

2009年5月30日土曜日

国有企業は存在しえない

読売新聞2009年5月30日18時48分
「私が認めない取締役存在し得ない」郵政社長人事で総務相

日本郵政に対して何度となく介入的な発言を繰り返している総務相は政治家なのだ。だから、政治的に振る舞う。税金を使っていろいろと口出しする。これは避けられない。

しかし、郵政は完全民営化するのではなかったのか。

飛脚や伝書鳩から始めるつもりで、民営化を促進すべきだろう。もはや国有企業は存在しえない。そして、いつかの日か、政府も存在し得なくなるだろう。これが、DOTの超長期予想である。

2009年5月27日水曜日

健康増進法は政府肥大化法に過ぎない。喫煙者よ起て!

外務省のページによれば、「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約」(Framework Convention on Tobacco Control)を日本は受諾しているとのこと。また、「健康増進法」なる法律が制定され、それは、次のように書いている。

第二十五条  学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用 する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない

の法律を実施するために派生的な法律や条令などが作られているようだが、これは明らかに非合理だ。その理由について、次に説明したい。

わが国が全体主義的な独裁国家や社会主義国家でないのであれば、上にある「官公庁施設」を除けば、「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所」と「飲食店その他の多数の者が利用する施設」のすべてが国営であるわけがない。例えば、劇場のオーナーが健康に対する煙草の影響を懸念して、劇場全部を禁煙にしたり、一部を禁煙にしたりすることがあっても不自然ではない。逆に、全館を喫煙を可能にして喫煙者のニーズに応えようとする劇場オーナーがいても、やはり不自然ではない。では、喫煙の習慣のない者はどうしたらよいのか。単純である。禁煙やいわゆる「分煙」を実行している劇場に行けばよいのだ。愛煙家が無理して禁煙の劇場に行く必要がないのと同じである。これは、個人の自由である。

いかなる理屈で、政府が、官庁や国営以外の施設の管理者に対して、「受動喫煙(中略)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない」などと命令する法律を作ることができるというのか。

「受動喫煙」を避けるために喫煙者のいない場所に移動する自由は誰もがもっているはずではないか。喫煙者が他人の手足を椅子に縛り付けて煙草のケムリを吹きかけているとでもいうのか。

この法律は、憲法第13条が保証する個人の幸福追求権を侵害しているといわざるをえない。

健康増進は個人の課題である。個人の喫煙や飲酒は、その健康への影響とそこから得られる楽しみとのトレードオフを判断した上で、その量や回数を各自がコントロールすればよいのである。その自己決定権を軽視する法律に合理性はない。

喫煙者が比例的に多かった時代には、非喫煙者の声は相対的に小さく、喫煙者の数が少なくなると、非喫煙者の声が大きくなる、ということはあるかもしれない。しかし、喫煙者が非喫煙者を監禁・拘束して煙草を吸わせていない以上、施設を禁煙とするか喫煙可能にするか、「分煙」にするかは、その施設の所有者の裁量の範囲でなければならない。その施設の管理者に、喫煙に関して、特定の何かを努力させるような権限を政府がどうやったら持ち得るのか。

そもそも、「受動喫煙」という言葉自体が、虚偽であり、それ自体が自己撞着なのである。受動的な喫煙などというものはありえない。喫煙者はすべて能動的に喫煙しているのだ。たとえば、隣の人が煙草のケムリをあなたに吹き付けたとする。あなたは煙草が大嫌いだとしよう。当然、そこであなたは不快を訴え、煙草を消してくれないかと要請するだろう。あるいは、その場を立ち去るかもしれない。つまり、隣人のケムリがあなたの同意なしにあなたが所有する自己の呼吸器官に吹き込まれたことについて、その当事者に抗議し、何らかの合意を成立させるか、その場を立ち去ることで解決するか。解決手段は与えられているのである。大人数の喫煙者のいるバーやホールのような場所で交渉が無理であれば、立ち去れば良いのだ。

つまり、「受動喫煙」というのは決して、喫煙ではない。単に、合意に基づかない煤煙の押しつけなのである。だから、そのことを不快に感じるのも当然であるし、その健康への影響を懸念することも理にかなったことだ。

しかし、それなら、なぜ能動的にその問題を解決する方策をとらないのか。なぜ政府に頼るのか。なぜ税金を使って、役人に馬鹿げた法律を作らせるのか。愚かとしかいいようがない。政府のナンセンスなお節介、個人の自己決定と自由に対する政府の介入を、自ら高い税金を払って増強しているのに等しい。政府権力の肥大化にただひたすら貢献するだけだ。自虐的というのは、こういうことをいうのだ。

個人の自律性と自己決定の重要性を忘れたら、政府に生涯にわたって収奪され、洗脳され、好きな煙草を吸うことも遠慮してしまうようになる。それでは奴隷ではないか。

徹底的にリバタリアニズムの理論を追求した、オーストリア学派の経済学者Murray Rothbardの決定的な言葉を引用したい。
Smokers, rise up, be proud, throw off the guilt imposed on you by your oppressors! Stand tall, and smoke! Defend your rights!

喫煙者達よ、起ち上がれ、誇りを持て、抑圧者によって植え付けられた罪の意識をかなぐり捨てよ! 背を伸ばして起って煙草を吸え! 君たちの権利を防衛せよ!

Murray Rothbard, America's Most Persecuted Minority
(マリー・ロスバード、『アメリカでもっとも迫害されている少数派

2009年5月24日日曜日

DOTは、自由主義とどう違うか?

自由主義者といって誰を思い浮かべるか。現代の日本なら、小泉元首相とか竹中平蔵氏とか昔の小沢一郎氏?

もし、あの手の政治家の思想を自由主義というなら、DOTが指向するものとは天文学的に違う。英米のMargaret ThatcherやRonald Reaganなどについても言えることだが、あの手の「自由主義者」は、彼らの日常的な党利・党略の蠢く政治における戦術の出発点として自由主義を捉えている。つまり、他の政党との駆け引きによって政府をいかに使うかに役立つ「主義」なのである。彼らの仕事は他の政党や議員との競争に打ち勝って、予算を獲得して自らが主張する政策を政府にやらせることである。そして自らの政治的影響力を拡大することだ。しかし、彼らの存在自体が政府に依拠しているのだから、そこで構想される「改革」や「政策」は、政府と政府が行う施策を根底から革命的に変革するものとはなりえない。そもそも、そんな変革をやろうとすれば、何よりもまず、政治や社会のあり方を根本から、ラディカルに構想して理論武装しなければいけなくなる。そんなことをやっている政治家は今や世界中どこにもいない。彼らの「自由主義」は見慣れた、既にある「自由主義」であって、本来の自由主義の根本を見据えて、それを創造的に発展させようとするものではない。それは、永田町と霞ヶ関に都合の良い自由主義であり、財界に奉仕する自由主義であるに過ぎない(残念ながら、それにすら失敗しているのが現状なのだが)。

しかし、例えばアメリカ建国の父たち、例えばThomas Jeffersonにとって、自由とは、アメリカ独立革命によって新しい共和国を打ちたて、そこに市民による自由な共同体を築くことをとおして獲得されるものであった。そこには大きな思想と知的な戦略が必要とされた。その思想は、既成の政府や軍隊を超越した次元で、まずは構想される必要がある。なぜなら、自由とは政府や軍隊が作って人々に与えるものではなく、人々が自ら発見し、獲得し発展させるものだからだ。ある意味で、自由とは、自由を発見し、その意味を学習し、さらに拡張させる人間の潜在的で自己循環的な運動力なのであろう。

DOTはアメリカ独立革命におけるJeffersonの思想と実践の重要性を認める。それは、いわゆる自由主義とは異なる。使い古された「自由主義」やら「リバタリアニズム」やら「リベラリズム」を捨て去ったところに、DOTがある。



エコポイントと経済のエコロジー

エコポイントなるものを政府は始めるらしい。
グリーン家電製品を購入された方々は、様々な商品・サービスと交換可能なエコポイントが取得できます」
「グリーン家電製品」とは、エアコン、冷蔵庫と地上デジタル放送対応テレビの3種類なのだそうだ。これは、一見、電力を消費する旧型の電化製品を電力をより消費しない製品に置き換えることで、環境対策になるように見えるかもしれないが、そんな保証はどこにもない。むしろ、史上まれに見る愚かな政策のように思えてくる。

まず、なぜこの3種類しか対象にならないのか。非合理だ。次に、支給されるエコポイントなるものが何と引き替え可能なのかが、まだ決まっていない。それならメリットがはっきりしないではないか。

さらに、これは一種の景品だから、割引と同様、「グリーン家電製品」の売り上げ促進効果があるだろう。だからこれは、明かな政府による税金を使った市場経済への介入だ。そして、売り上げを促進するのだから、環境対策には一方で負の効果が生じることは明かだ。古い製品を全量回収できるかどうかも明かでない。地デジ対応テレビが対象になっていることを考えると、これは環境対策なのではなく、景気対策なのではないか。それなら、エコポイントという名前は国民をミスリードしている。

では、景気対策としてはどうか。それも疑問である。この制度が何年も続く保証はない。一定期間の売り上げ増はありうるが、継続した効果は期待できない。また、その3つの製品だけに効果があるので、他の製品の価値を相対的に減損するのではないか。それは、メーカーにとっては、将来にわたる投資と資源配分を誤らせる可能性があり、経済的な非効率を生む可能性を孕んでいる。

さらに、特定業種だけを対象としているのは、公平性に欠ける。

そもそも、恣意的に3つだけの製品を選んでそれに景品を与えること自体が、無意味な市場経済への介入であろう。その制度が終了した時点で、そこで生じた不経済と、すべての費やされた税金よりも、その売り上げ効果と環境への効果の方が大きい保証はどこにもないではないか。

消費者が購買するものを誘導しようとすること自体が、無意味であるし、税金の濫用であろう。買い換えなくても良い製品を買い換えさせるように誘導すること自体が、やはり無駄である。

もし、持続的に環境対策の強化と景気の浮揚を達成したいのであれば、このような無駄な、効果のはっきりしない政策に税金を費やすのではなく、法人税と所得税と消費税等の減税を行って、生産と消費を活性化することが必要だ。

メーカーに新技術の開発を促し、環境分野での新しいビジネスの形態を開拓するインセンティブを継続的に与え続ける必要があろう。一時的な景気対策ではなく、持続的な富の創造のための仕組みづくりが必要なのである。そのための創造的破壊と変革が、今求められているのだ。政治と行政は経済のエコロジーを乱すな。

2009年5月23日土曜日

DOTとは何か

DOTとはDecOnstructed Thatcherismの頭文字だ。
しかし、その頭文字には意味はない。DOTはDOTだ。
DOTは合理的思考のフレームワークだ。
DOTは美意識のフレームワークだ。

DOTは自分がDOTだと信じている人間のことだ。
ただし、DOTはリバタリアニズムを指向する。右でも左でも上でも下でも手前でも奥でもない。
DOTの着想の原点は、John Lockeの自然権思想を理論的なよりどころとして無政府資本主義を指向したMurray Rothbardのリバタリアニズムにあった。しかし、彼の思想だけに執着するものではない。しかし、Rothbardが行ったのと同様に、DOTでは、ラディカルな問いを常に重視する。

その思考方法は相対化を指向する。何かを主観的に絶対視することはない。
主観を自分以外の他の思想やイデオロギーに埋没させたり同化させることをしない。

その美意識は、伝統と前衛との間の相互作用と相互依存に注目する。
伝統の内に前衛を見いだし、前衛の内に伝統を見いだす。

部分と全体とを共に見つめる。

光の内にある光の差異を見つめる。暗黒の内にある暗黒の差異を見つめる。
沈黙と音、ノイズと楽音のどちらにも耳を傾ける。

DOT movie: Who's affraid of Margaret Thatcher?: