2009年12月28日月曜日

予算と政治 これで良いのか



来年度予算では、子ども手当の支給、高校の実質無償化などが盛り込まれた。格差を緩和し、福祉政策を充実させようとするのは、民主・社民・国民新の連立政権であれば、自然な方向性といえる。

それは、小泉政権が推進した国家独占資本主義の横暴に対する反動としては、よく理解できる。国家独占資本主義は自由主義ではない。国家を肥大化させるために独占資本を強化し、結局のところ国民への恩恵は微々たるものになってしまうのだから、彼らのいう「自由主義」が自由主義でないのは明らかだった。

もちろん、福祉国家を目指すような社民的政策もまた、国家の肥大化を助長する。米国の保守派がオバマ政権を「社会主義政権」と批判する根拠がそこにある。現在の日本の連立政権の政策もまた同じ傾向をもっている。では、どうすればよいか。

DOTの主張は明快である。新政権の最初の2年はよしとして、それ以後は、(1)増税をさせない。(2)国債発行を減少させる。

この2点を行えるかどうかで、評価しよう。この2点が達成できなければ、次の衆院選では民主党に入れなければよい。そういう意思表示をすべきだ。

この議論はいわゆる「財政改革」とはまったく次元が異なる。「財政改革」は国家のための国家による財政改善政策にすぎない。だから、増税の議論が必然となる。

例えば、今度値上げされる「たばこ税」だが、税率を上げれば、たばこを吸う本数が減るから健康になる、などという詭弁にだまされてはいけない。そもそも税金そのものが恣意的に国家が決定して国民から合法的に収奪する仕組みに他ならない。しかも、所得税や住民税だけでは飽き足らずに、「不健康」だがオイシソウなたばこという餌を吊るして、買わせ、吸わせ、そこから「たばこ税」をさらに搾取しようとする。なんと国家権力のあさましいことか。たばこ税や酒税などは、すべて廃止すべきだ。健康か有害かを判断するのは、消費者個人である。国家がパターナリスティックな(父権的な)力を振りかざしては、逆に国民から収奪するのは許せない。

減税と国債発行減額が、これからの日本政府の政策を判断するメルクマールとなる。

2009年11月30日月曜日

行政刷新会議の事業仕分けなんて、甘い!



内閣設置の行政刷新会議によるいわゆる事業仕分けに対して、官僚や各界からの反対が相次いでいる。

例えば、オリンピックの強化費の補助削減に反対するとか、ノーベル賞学者が科学技術振興費の削減に反対したり、とか。

誤解を避けるためにあらかじめ言っておこう。DOTは現政権の内閣が設置した行政刷新会議やら、それがやっている事業仕分けとか、そんなものは一種の茶番に過ぎないと考えている。税金の無駄遣いをカットしても、それを他の無駄遣いのために使ってしまうから、茶番なのである。国民には何も戻ってこないから、茶番なのである。

しかし、政府の無駄遣いをカットする部分については賛成だ。例えば、上記のノーベル賞学者の記事にこういう発言がある。

「資源のない日本で科学技術への投資を怠っては日本の将来はない」 「費用対効果では量れない事業も多い」

こんな馬鹿げた意見は意見でも何でもない。論理がはじめから破綻している。

一見、「資源のない日本で科学技術への投資を怠っては日本の将来はない」ことを反論することは難しいだろう。科学技術がなくなれば、生産性が低下するからだ。だから、科学技術への投資を怠ることはできない。しかし、このことと事業仕分けが必要だということと、どう関係あるのだろうか? まったく無関係ではないか。投資が有効に行われているかどうかを検討して有効な投資に税金を振り向けるのが事業仕分けではないか。有効でない投資は日本の将来を危うくするからだ。

「費用対効果では量れない事業」というのは、次の内のどちらかだ。

A 費用対効果がない。
B 費用対効果を定量的に表現できない。

「投資」であるというからには、Aは事業仕分けでカットすべきだ。税金の無駄遣いだからだ。
Bについては、定性的な効果を定量化する表現手法を工夫する努力が足りないか、定性的な効果を説得力をもって説明する能力が欠如しているか、のどちらかだろう。どちらにせよ事業仕分けでカットされても文句は言えない。

ノーベル賞学者もスポーツマンもこんな単純なことも分からないはずはないと思うのだが。

そもそも、歳入よりも歳出がはるかに多く、歳入以上の額の国債を発行せざるをえない国が、オリンピックだか科学技術振興だか、そんな偉そうなことは言えないのだ。その現実を直視しなければならない。

国債の大量発行は、すなわち国民からの強制的な搾取を意味する。国債発行と徴税という2つの強権的かつ暴力的な徴発手段を政府から取り上げなければならない。

したがって、DOTは次のように主張する。
  1. 憲法を改正し、段階的な一切の租税の廃止と国債を含む新たな借金を行う権利の政府からの剥奪を行う。
  2. 日本銀行は、将来的に不換紙幣の発行を停止するための計画を進める。金属資源との兌換紙幣発行の準備を長期間行い、最終的に実行する。
  3. 2.は国債の償還と並行して長期的に行う。
  4. 国債の発行は段階的に縮小し廃止する。
  5. 歳入・歳出の双方を段階的に縮小する。
  6. 政府と地方自治体の事業を段階的に縮小し、民営化する。
  7. 自衛隊・警察・消防などは、地方自治体に移管しつつ、段階的に民営化を進める。
  8. 50年間程度の期間の内に、一切の国家による租税を廃止する。
DOTにとって、事業仕分は甘すぎる。本当は、政府による事業の全面廃止が必要なのだ。

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2009年11月8日日曜日

最近のニュースについて



民主党政権はいわゆる普天間基地移転問題で米国から既定路線を踏襲するよう圧力を掛けられている。そんな状況で、岡田外相は、県外移転の可能性を否定した。嘉手納基地に統合する案を主張しているようだが、これは米軍が拒んでいる。他方で、北沢防衛相は、嘉手納基地への統合は困難という判断だ。

自民党は、当然、閣内不一致を突いてくる。嘉手納基地周辺住民は嘉手納への統合反対を訴える。

混乱状態のように見えるが、実はそうではない。自公政権が米国と結んだ約束を見直すことは新政権としては当然ありうることだ。沖縄の基地の負担を軽減することを重視する鳩山政権が米国の言いなりになる方が、むしろおかしい。

外相や防衛相の言うことは、妥協策を練っている時に出てきたもので、最終結論でないことは明らかだ。それぞれの立場で一番問題の少ないと考えられることを発言しているに過ぎない。

だから、今の「混迷状態」も「閣内不一致」も、当たり前の状況であって、何もおかしくはない。問題は、次の段階でどのような決断を政府が行うかである。鳩山政権はDOTではない。だから、おそらくは最終的には既定路線どおり、というシナリオを描いているのかもしれない。その蓋然性は高い。

しかし、それはおそらく最悪の政治的決断だろう。そもそも普天間基地移転というのは、沖縄の基地の負担軽減を目的としていたのであり、民主党が県外への移転を主張していたのであれば、県外に移転するしか、政策的にありえないではないか。では、どこに移転するのか?

まず、九州・四国・本州・北海道などへの移転には米軍が反対するだろう。台湾や東南アジアから離れてしまうからである。ほとんど平坦な陸地のない日本周辺で、沖縄ほど戦略的に良い場所はないのである。では、沖縄外の周辺に好適地はあるか。あれほど広い島は他にない。したがって、県外移転は次の方法によるしかない。

1 移転ではなく、基地の削減
2 米国あるいは台湾や韓国領への移転
3 人工島嶼の建設
4 巨大空母の建設

このなかで実現可能性のあるのは、1だけだろう。つまり基地を削減するしかない。ここでも2つの選択肢がある。

1 日米安保条約を破棄する
2 日米安保条約を維持する

1を選択すると、おそらく次の選択肢は3つ。

1 日本が核武装し、自衛隊を増強する。
2 道州制を導入し、国防はそれぞれの道や州にまかせる。連邦軍を保持しない。
3 非武装中立路線をとる

3は、かつての社会党路線だが、社会主義諸国の崩壊とともに現実性がなくなっている。1も非現実的だ。核実験を行う場所がないし、それ以前に米軍あるいは中共軍によって粉砕されるだろう。

そこで、2の可能性を見てみよう。ただし、これには憲法改正が必要となる。この道州制が実施されると、中央政府(あるいは連邦政府)は、儀礼的な意味しかもたなくなる。保守的な人々は、そこに神話的世界との精神的な結びつきを見出すかもしれない。日本はまさに日の本の邦に還る。各州政府は日の丸と日本神話だけを精神的な紐帯として連帯する(州民それぞれの思想信条の自由は当然確保される)。

例えば、沖縄州政府は米軍基地を放逐しようとするかもしれぬ。それを実現するために州政府が他国と同盟を結ぶ可能性もある。そこには軍事的衝突の危険があるが、リスクの評価は州政府に委ねられる。逆に米軍基地を何らかの形で容認するかもしれぬ。

沖縄だけでなく各州は、それぞれに独自の軍事的・非軍事的な決断を迫られるだろう。そうしなければ、米軍が自らの東アジアにおける軍事的なプレゼンスを維持するために進駐してくることは明らかだからである。ある州は米軍と同盟あるいは不可侵条約を結ぶかもしれぬ。ある州は他国と同盟するかもしれぬ。まれには、その混沌状態の中に一種の真空地帯としての非武装・不可侵の特権を確立する州も現れるかもしれない。外見的にはこれは日本の国家としての解体なのだから、米国だけでなく中国やロシアや韓国・北朝鮮による軍事的干渉もありうる。その状況で、約束の地を、どこか日本以外の地に求める州民も現れるかもしれない。州民は州政府自体を解体して、自治的村落共同体に還元させる決断をするかもしれない。この状況は、混沌だろうか。本当に日本の崩壊と言えるのか。いや、逆にその混沌の内から、日本を精神的に蘇生させる可能性が見出せるかもしれない。そこでは、誰も「日本精神」が何たるかを押し付けたりはしないからである。

国家や軍隊が、精神主義や理想主義と結びつく時ほど恐ろしい時はない。歴史が教えるところだ。なぜなら、精神主義や理想主義を、国家機関や軍隊組織という最も醜悪で自動機械的でしかも現実的な手段によって具体化させようとするからである。それはファシズムである。ならば、各個人が国家や軍隊から離れれば離れるだけ、精神と理想を各個人の内心に保持できるはずではないか。それは、精神の堕落ではなく、むしろ純化ではないか。その時はじめて、「防衛」や「自衛」という行為の意味が、制度や非人間的な自動機械から奪還されて、人間の本能的な自己保存と結びつけて論じることができるようになるはずだ。銃を取るべきか否かを判断できるのは、その時でしかない。政府が若者に赤紙を送りつければ済む問題ではないのである。

日米安保条約を維持する選択は、もっとも安易な選択である。それは問題の永続化にしかならない。第一の問題は、日米安保条約そのものではなく、安保の維持がもっとも現実的な方法に思えてしまう、日本人の精神状態ではなかろうか。それは単なる利己主義と自己撞着でしかない。

2009年10月8日木曜日

大阪府の橋下知事の言っていることはオカシイ!



「橋下知事が民主批判『赤字国債発行なら大うそつき』」という産経新聞の記事を読んだ。この知事の言っていることはまったくおかしい。

橋下知事曰く「金が足りないなら赤字国債ではなく、増税議論を進めないといけない」

赤字国債も増税も結局は同じではないか。増税で国民から直接収奪するのも、赤字国債によって国民を疲弊させて結果として国民を収奪するのも、同じではないか。

赤字国債が悪くて、増税なら良い、なんていうのは、国家主義者の詭弁に過ぎない。国民を搾取する側の論理である。増税する政府は最悪である。それをあたかも善人であるかのようにいう。

それこそ、嘘つきではないか!

2009年10月4日日曜日

オリンピックに当選だ!



産経新聞は、東京五輪招致失敗を民主党になすりつける記事を書いている。笑止千万だろう「なぜ鳩山首相は、東京五輪みたいなものを応援するためにコペンハーゲンまで出かけて行ったのか、そんな暇があるなら、東京でやるべきことが山積のはず」ぐらいの記事が書けないのか。

IOCが出した、Report of The 2016 IOC Evaluation Commission の東京に関するセクションのp. 30には、こう書いてある。
Opinion poll
The public opinion poll commissioned by the IOC shows the following levels of support for hosting the 2016 Olympic Games: 56% support in Tokyo and 55% nationally.
つまり、日本全体では45%、東京でも44%の人が、五輪招致に賛成していない、ということだ。わずかに過半数は上回っているが、五輪招致が日本国民の総意である、などと言える数字ではない。

五輪開催に必要な費用の多くは、税金から支出される。それを一部業界(土木・建設業など)とスポーツ振興予算に割り振ることに喜ぶ人間の数は、納税者の45%しかいないという、明白な事実が示されただけだ。

スポーツ関係者が残念がるのも、おかしな話だ。55%もの国民の理解が得られたのだから、それで満足すべきだろう。今後も、国家予算の相応の額は、スポーツ振興に振り向けられるに違いない(必要・不必要に関係なく)。それで何が不満なのか。

そもそも五輪ほど胡散臭いものはない。長野を思い出したら、誰でもわかることだ。単なる利権集団の興行に過ぎない。全世界の国民の富を搾取し、直接・間接に五輪関係者と関連業者に分配し・利益誘導することで、そのブランドイメージを釣り上げている。

もちろん、スポーツ関係者が五輪などの競技会を開催して、それに他国のチームも参加し、その対戦をテレビで観戦するために、放送会社や興行主に金を支払う人間がいても、それは自然なことだ。しかし、五輪観戦者は必ずしも五輪を絶対必要としているわけではないのである。観戦という行為は基本的に娯楽だからである。

五輪開催の経済的効果などということが喧伝されるが、そんな議論は本末転倒の非合理でしかない。ある国の潜在的な経済的成長の可能性が十分に横溢しているからこそ、五輪開催地に選出されるのであり、だからこそ五輪開催がそのコストを支払って余りある経済的効果をもたらしうるのだ。そうでなければ、たとえ開催できたとしても後で開催コストが負担になって経済と国民生活を圧迫することになろう。

つまり、五輪開催は結果であり、成果とはなりえるが、原因にはなりえない。

五輪開催の政治的意図は明らかである。それは、ナショナリズムを高揚させることで現実を客観的に直視し、分析し、問題の解決に向けて合理的に判断できる能力を国民から奪うことである。そのために大量の税金=国民の富を濫費することに尽きる。石原慎太郎の考えそうなことだ。

DOTは、そのような見え透いた五輪招致運動に反対する。

2009年7月22日水曜日

「小泉チルドレン」と「財源」



「小泉チルドレン」という言葉がある。前回、2005年の衆院選挙で自民党から立候補し当選した議員の内、当時の小泉首相の推進する郵政民営化などの行政改革および自由主義的な規制緩和などの政策を推進しようとする、小泉シンパの議員達のことをいうらしい。郵政民営化反対を唱える議員の選挙区へ「刺客」として送り込まれて立候補し当選した者もいた。

自民党は、郵政民営化反対論者として除名した議員を復党させたため、今回、8月末に行われる選挙では、それらの復党組の議員を擁立させる場合も多く、「小泉チルドレン」の一部は他の選挙区に鞍替えせざるをえない状況にあるといわれる。

DOTは、小泉首相のいわゆる「改革路線」などというものは、改革でも何でもなく、小さな政府の実現にとって役に立たないばかりか、名ばかりの「民営化」によって、結局は、国家と政府官僚の支配を永久に温存させることを目的にした、情報宣伝(プロパガンダ)の一種と考える。小泉とその一派は、「政府を改革すれば、良い政府ができる。規制緩和でより良い社会になる」という幻想を国民に植え付けることに、一時的に成功した。しかし、彼らの「規制緩和」や「民営化」は中途半端で名ばかりのものだ。さまざまなお節介な法律は残したままで、不自由な意味のない「規制緩和」や民営化を推進してきた。他方で、「共謀罪」や「イラクへの自衛隊派遣」や「裁判員制度」など、日本をより不自由で、危険で住みにくい国にさせることばかりを国民に押しつけた。かつての国鉄民営化や電電公社などもまったく同じであって、官僚主義的で巨大で小回りのきかない独占企業を作ることにしかならなかった。小泉一派のいう「自由主義」は実は「不自由主義」に他ならない。「小泉チルドレン」だけでなく、国民の多くが騙されてしまった。

「小泉チルドレン」は小泉一派と自民党に利用されたのだが、それが政治というものである。チルドレンには理解できないだけだ。

ところで、自民党の政治家は良く「財源」のことを口にする。「民主党の政策には財源の裏付けがない」などと野党批判の常套句となっている。しかし、国家財政の主たる財源とは何かといえば税金だろう。それは、国民の富と労働の成果を強制的に(しかし形式的には合法に)強奪した財貨のことだ。政府は「財源」を食いつぶしてきた。これからもずっと「財源」を食いつぶしていく。

野党の政策の「財源」を問題にする暇があったら、政府・与党は、財源が困窮する状況を作り出した責任についてよく考えよ。赤字国債のことを考えよ。「増税」を語る暇があったら、減税と税制の簡素化、撤廃についてもっと大いに語るべし。それが、政府・与党にとっては、贖罪の唯一の方法なのだ。

結論: 「財源」だか「増税」だかを与党が議論する資格はない。盗人猛々しいことをいうな。

我々は「財源」ではない。我々は常に、国家による犯罪的とも呼べる(形式的には合法な)諸政策の被害者なのだ。


2009年7月18日土曜日

解散だけでは不十分だ



麻生首相が、やっと解散するそうだ。それも、与党の意見を受け容れて、少し後ろにずらした7/21に解散すると予告した。いろいろな政治的思惑があるのだろうが、解散の予告というのは、実際、7/18現在、自民党の国会議員達の行いは混乱を極めている。

いわゆる自民党内の「反麻生派」が首相交代を訴えているが、安倍・福田という無責任・敵前逃亡首相の後に、自民党員の多数の支持を得て首相になったのが麻生だ。任期切れ間際に交代させて、何をしようというのか。選挙後の政治的な立場を強化しようとしているのだろうが、自らが選んだ首相をたかだか10ヶ月しか働かせずに引きずり下ろそうとするのは、見苦しい。もし、本気で麻生政権打倒を目指すなら、なぜ野党が提出した内閣不信任案に賛成しなかったのか。矛盾している。

解散するのは当然だ。いや、もっと前に行うべきだった。DOTは解散だけでは不十分だと思うのだ。

無駄を生む行政機構を温存し、バラマキ政策によって国家財政を破綻させ、官僚支配を保護し、常に増税を画策する、そのような自公政権を次の衆院選挙では絶対に下野させなければならない。国民の富と労働を収奪する政財官の癒着した構造を粉砕しなければならない。

もちろん、民主党政権が誕生しても、バラマキ的体質は変わらない。米国での民主党がそうであるように、リベラル政権のバラマキ体質はよく知られている。大きな国家を目指そうとする政策には、断固反対する必要があろう。しかし、だからといって現在の自公政権を温存しておく理由は何もないのである。

政権交代が可能になることは、たとえ民主党政権の政策が悪くても、政府の政策の選択肢を多様化するという効果がある。つまり、いつの日か議会制民主主義という茶番劇を放棄し、より自由な政治体制に移行するための、小さな一歩なのである。



2009年6月28日日曜日

DOTゲーム大賞発表




映画であれ、TVゲームであれ、何であれ、質の高いエンターテイメントは、単なる暇つぶし以上の満足感を与えてくれるものだ。大昔なら、メガネの有名なハロルド・ロイドの喜劇、エロール・フリンの海賊映画だろうか。その後の世代なら、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズの天才的なダンスの妙技か。

デジタル時代には、映画だけでなく、TVゲームやPCゲームがある。残念ながら、力作は多数あるが、深い余韻のある作品は少ない。

そこで、最近のPCゲームのなかから、DOTが一つを勝手に選んで大賞としたい。さて、その最高傑作はこれだ。

DOTゲーム大賞2009: Crayon Physics Deluxe by kloonigames.

上に述べたように、これ以外にも力作は多いのだが、この大賞受賞作のコンセプトの斬新さは卓越している。何百人がかりの大手メーカーの大作や美しいコンピュータグラフィクスも、この作品のコンセプトの秀逸さには及ばないと思う。ぜひ、デモ版でもよいから試されることを推奨する。

DOTからのコメント
物理法則をある程度忠実に反映しつつ、初心者でも継続的に遊べる。じっくりと考えながら遊ぶことができる。思考を要求するゲームだが、難しすぎるわけではない。子供から大人まで幅白い層に受け容れられるだろう。クレヨンで描いていくスタイルが、いろいろ試してみたい気持ちにさせてくれる。きわめて独創的なゲームだ。

ちなみに、昨年度分も決めてしまおう。

DOTゲーム大賞2008: Portal by Valve

DOTからのコメント
PortalはCrayon Physicsと異なり、有名なPCゲーム・メーカーの製品だ。とはいえ、お得意の3Dグラフィクス+物理モデルを、戦闘ゲームや航空機のシミュレーターに利用するという常套を選ばず、シュールリアルな3次元空間に応用した点に独創性がある。ユーモラスなロボットや音楽も、ストレス解消指向の従来のアクション・ゲームにはない情趣が感じられる。

もちろん、これら以外にも独創的なゲームは多いに違いない。ひと味違ったものを一つ選んで、ゲーム・プログラムの多様性を味わうというのも一興であろう。

2009年6月26日金曜日

DOTの絵画論序説



横山大観(1868~1958)が男爵・大倉喜七郎がスポンサーしたローマでの日本美術展覧会に出品した大作、『夜桜』は、絢爛豪華な色彩と暗闇との対照を見事に描いている。力強く、伝統に根ざしながらも真に新しい日本画の創造という大きな課題に取り組んだ横山大観の意志があふれるばかりである。

しかし、この大作は、それ以前に富田渓仙(1879~1936)が描いた『祇園夜桜(1921)に触発されている、といわれている。実際、渓仙死後、大観はこの作品を買い取って、死ぬまで愛蔵したという。

渓仙の才能を賞賛していた大観は、渓仙の夜桜の凄さがよくわかっていたはずだ。この2つの夜桜は、まったく異なる印象を与える。渓仙の作品に、大観作品のような華やかさはない。表面的な力強さにも劣る。渓仙作品は大観作品が屏風であるのと違い、画面も小さい。

しかし、渓仙の『祇園夜桜』には、夜桜のはかなさが見事に表現されていて、深い余韻が感じられる。それは、大観もまた、主題の華やかさと対照させるようにして描こうと意図していたものに違いない。しかし、どちらが成功しているかといえば、やはり渓仙作品に軍配が上がる。

力強い意志と画才、技量によって、巨大な画面を支配しコントロールしようとする大観の作品もまた傑作であることに違いはないが、その強い意図・意志の力が、目標達成寸前のところで、逆効果となっているのではないか。画家が画面をすべて支配しようとすると、罠にはまる。画家の意図の及ばない部分が画面には必要なのではないか。

渓仙作品にあっては、画家の意図や意志は、表面的には強く打ち出されていない。しかし、深い背後の暗黒の内に隠されている。それによって、夜桜がもつ華やかさとはかなさという二面性が、対照的にしかし間接的に見事に表現される。

何らかの情趣を、直接的に、あからさまに表現することなく、しかし結果的にいかに鑑賞者に伝達することができるか。ここに視覚芸術におけるコミュニケーションの秘訣がある。

これが、DOTの絵画論序説である。

2009年6月25日木曜日

DOTは都市景観をどのように考えるか



東京の歌舞伎座の改築に関して、議論がある。「事前調整段階で石原知事から『銭湯みたいで好きじゃない』『オペラ座のようにしたほうがいい』などと注文がついた」という声もあったようで、政治的な介入があったのかなかったのか。どちらにせよ、低層部は、現在の歌舞伎座のファサードを模しつつも、装飾は抑えられて垢抜けしてしまっているし、その背後には幾何学的で無機的な高層のカーテンウォールがそびえる。

松竹の持ち物なのだから、基本的に建替えること自体は松竹の自由である。だからといって外野が議論をして悪い理由もないのだから、松竹の建替え案に賛成・反対があるのは自然なことだ。

DOTは、この種の景観保存論争あるいは歴史的建築物保存論争は、いつも重要な点を見落としていると考える。論争がナンセンスだとは考えないが、論争するならば、論争すべきポイントを見落としてはならない。では、そのポイントとは何か。

それは、建築とその固有の空間の存在を意識できるか否か、という評価軸の重要性である。

歴史的建築の保存が、しばしば安易な改築よりも好まれるのは、ただ古い建築物を残すこと自体に価値があるためではなく、歴史的建造物が、その利用者に対して、その建築物の存在とその固有の空間を意識させ、建築物およびその空間との三次元的で感覚的な交感を可能とさせているからではないか。それは、建築における芸術的な体験なのである。

もし、改築・新築される建築物が、従来の建築物より以上に豊かな芸術的価値を利用者に提供することができるのであれば、古い建築物の保存にこだわる必要はない(別に、文化財としての価値を考慮する必要はあるが)。

現代の建築家が、ただ古風な様式を真似ただけの建物よりも優れた建築物を創造することができるのであれば、建て替えればよいではないか。そう考える。現代の建築家にチャンスを与えるべきである。

では、DOTは東京・歌舞伎座の建替えを支持するのか? それは、Noだ。

上記リンクの記事を読み、改築案の完成予想図を見るかぎり、ファサードだけはオリジナルの外形的な特徴を残しながら、しかし細部の装飾は削除したために、オリジナルの様式性は完全に破壊されている。結局は単なる普通の高層ビルを建てる、ということでしかないように思えるからである。これでは、オリジナルの建築に寄生してそれを食い尽くしてしまう病毒菌と同じではないか。どこに建築家の創造性とオリジナリティがあるのか。

DOTは、常に精神的に豊かな体験を与える建築空間を指向する。

2009年6月14日日曜日

DOTの指向する芸術(その2)



さて、次のYouTubeのリンクに、ある音楽の学生(?)が演奏するScriabinのピアノソナタ第一番の「葬送」がある。

(G. Imperato) Scriabin Sonata No.1 Op.6 4mov. Funebre

ピアノの専門家には、それなりに専門的なコメントがあることだろう。しかし、その技術的なレベルとは無関係に、この録音には、Scriabinの音楽のエッセンスが感じられる。それは、潜在意識の世界を垣間見させるような、深淵なのだ。表面上の音響の美しさなどは、どうでもよくなる。

魔力的な深さ、呪術的な恐怖、永遠に解けない謎、暗黒の音楽だ。Scriabinはその暗黒の中を、光を求めて、光があるという確信をもって、さまよう。

Scriabinのピアノ曲の独創性は、当時としては斬新な作曲技法を駆使しながら、この暗黒の世界を実現したことにある。他に追随する者がいない。

そして、そのエッセンスを理解した演奏者であれば、学生でも演奏することができる。しかし残念ながら、優秀な演奏家であっても、その点の理解ができていないと、ただ美しく技巧的なピアノ曲の演奏というだけに終わってしまうのだ。

DOTは、異端の内に真の正統を発見しようとする。破壊の内に真の創造の可能性を見いだそうとする。そして、単に評論家にもてはやされる流行品の下手物の類を軽蔑し、それらと真の異才の作品とを峻別する。DOTは似非芸術趣味と浅はかなディレッタンティズムとを排除する。

DOTは天上と地獄の芸術をともに希求する。

国民総背番号制に反対する

以前から議論のある、国民総背番号制を導入しようという声が高まっている。税の不公平をなくそうという観点からの賛成意見である。主な主張は、以下のような記事に典型的だ。

【ネット時評 : 前川 徹(サイバー大学)】
「総背番号制」に反対するのは誰か?――年金騒動に思う

この手の議論は、似非自由主義者の十八番だ。彼らがいうところの効率化や合理化は、すべて政府の支配を効率化し、合理化することにつながるのだ。また、それによって、「小さな政府」を実現する一つの手法として、年金や福祉に関する複雑な処理を簡素化した税制に集約することで、例えば負の所得税ベーシックインカムなどによる富の再配分を効率的に実現できるという主張である。

DOTはこう考える。こんなものはすべてマヤカシだ、と。

なぜマヤカシなのか。なぜなら、租税自体が、マヤカシだからである。何のマヤカシなのか、それは合法的な窃盗であり強権による国民の富と労働の収奪だということを、政府が何か良いことを行う仕組み、そのための国民による寄付であるかのように偽装しているからである。寄付なら、払わない自由があるはずだろう。

課税自体が、自発的な合意による交換を原則とする自由主義経済と明らかに矛盾する。ベーシックインカムなどという、つまりは、一種の累進課税に過ぎないトリックが、市場経済と矛盾することはいうまでもない。

似非自由主義者(つまり自称リバタリアンや俗称「新自由主義者」、実は「国家統制主義者(statist)」)たちは、国民総背番号制による「税の公平性」と引き替えに、国民の財産権を収奪する徴税の効率化という政府の犯罪的行為に加担する愚かな陥穽にはまっているのだ。しかも、それに気づいていない。

合意による交換に基づかない取引が富を生むことはありえない。政府による「富の再配分」自体が非効率で無駄につながるのである。

さらに、政府の徴税官吏に個人の商活動や日常の購買活動まで監視される危険のある技術的な仕組みを与えることが、個人の自由を制約することにつながりかねないことは自明だろう。

裁判員制度も、国民総背番号制も、すべて、政府による個人の管理と、自由の制限、国民の富の収奪のための恐るべき武器なのだ。騙されてはいけない。

税の不公平を解消する唯一最善の方法は、税をすべて撤廃することである。

2009年6月13日土曜日

DOTの指向する芸術

DOTは芸術をどのように考えるか。一言でいうなら、岡本太郎が語った「芸術は爆発だ」で十分なのだ。しかし、さらに付け加えることも可能だ。

芸術は爆発だ。それは、人間の意識と無意識が、技術に支えられて生み出す、形態、音響、色彩等々の特殊な組み合わせなのだが、それは作り手と鑑賞者の双方に直観的なコミュニケーションを成立させる爆発的な力をもつ。

特に美術や音楽においては、芸術は、言葉の表現領域や意味の世界を超越しなければならない。美術や音楽は言葉の芸術であってはならず、論理や言語の技芸ではない。例えば、絵画の中で、意図的に寓意的あるいは象徴的な要素を用いることがあったとしても、それらが鑑賞者の脳裏に明示あるいは暗示する意味は、その絵画の効果を支える副次的な要素でしかないということだ。意味は、美術や音楽におけるコミュニケーションを成立させている本質的な要素ではない。具体的な形、表現形式の直観的な把握にこそ、美術や音楽の本質なのだ。

だから、美術史や分析的な絵画研究は、参考としては役立つことはあるが、それらによって、美術や音楽の鑑賞というものの働きを説明できるわけではない。

芸術を客観的に説明することは不可能だ。なぜなら、それは主観に依存しているからだ。

つまり、DOTは、視覚・音楽芸術において、具体的な表現形式と主観性を重視する。言葉や意味を副次的にしか取り扱わない。直観的に姿を捕捉することがもっとも重要と考える。

2009年6月12日金曜日

馬鹿げた茶番劇 日本郵政社長人事

日本郵政社長人事が難航しているが、まったくの茶番劇だ。DOT(どっと)大笑いだ。

鳩山邦夫総務相が西川善文社長の続投に反対し、それに対して他の閣僚や自民党内には続投に賛成の意見が多く、閣内不統一の状況になりつつある。首相が最終的に決断をする必要がある。

しかし、そもそもこんな意味のない事に一国の首相の貴重な時間を割かなければならないとは、まったく政治の貧困だ。では、なぜ意味がないのか。DOTが説明しよう。

法律では、総務相が日本郵政の人事の認可を行うことになっている。だから、鳩山氏が社長続投に反対することは可能だ。

他方で、「郵政民営化」と呼んでいる政策自体が、民営化とは名ばかりで不完全なものだ。日本郵政の株式は現在100%政府保有であって、2017年までに上場した場合でも相当数の株式を政府が保有する見込み。また、日本郵政が自社が保有する株式を売却するのは、郵貯銀行と郵便保険会社だけに限定されている。つまり、日本郵政が持ち続ける郵便局会社と郵便事業会社の大株主は事実上、政府なのだ。

したがって、「郵政民営化」などと呼んでいるものの実態は、国家独占資本を生み出すことに他ならない。こんなものは、市場経済にとって何のプラスにもならない。茶番だ。

だから、鳩山総務相が社長続投に反対するのは、郵政民営化の方向に歯止めをかけるための政治的な介入だと言ったところで、意味はない。総務相は日本郵政という国有会社の唯一無二の大株主なのだから。総務相を更迭できるとすれば、閣内不一致の責任をとらせるしかない。

しかし、どっちに転んでも同じだ。単に自民党内の政治勢力間の抗争でしかないのだから。

その対立は、政府の市場支配に関してどの政治勢力が主導権を握るか、という点での違いでしかない。政府の市場支配は「民営化」後も揺るがないのだから。

2009年6月7日日曜日

悪政府の仕業、改悪薬事法

DOTは新しい言葉を作った。その名も、悪政府
悪政府 = misgovernment
「悪政」を行うのが政府だからだ。これは、英語のmisgovernmentの意味の一つに由来している(Oxford English Dictionary 2nd Ed.にある、Bad government of a country or state. . . .に由来する)。

悪政府が立派に仕事をしていることが伺えるニュースが、薬事法改悪だ。

医薬品に副作用や危険性があっても不思議でも何でもない。副作用や危険性があるからといって、医薬品販売を制限するのはナンセンスだ。医薬品を副作用や危険性の強度に応じて分類するまではよい。その情報を一般に広く知らしめることは重要だろう。しかし、なぜ販売を制限しなければならないのか。対面販売でないから、インターネットで注文できないようにする? 販売方法の多様化を妨害することは、営業妨害だろう。

そのような規制強化を正当化することに合理性はない。医薬品をインターネットで販売している業者は、医薬品には副作用はないから、どんどん不必要に買って飲めと言っているわけではあるまい。強制的に買わされているわけでもあるまい。利用者は自発的に購買しているのだ。

民間の商業活動を、恣意的に制限する複雑怪奇な法律や省令を作って民間業者を弾圧し、商業活動を圧迫し、市場経済に介入し歪める。

我々は、政府を税金を払って雇ったつもりになっているが、それは違う。悪政府という存在は、国民の富を強制的に収奪し、その活動を規制し、価値と富の創造を妨害しながら、国民に寄生し続ける邪悪な存在なのだ。そして、あらゆる政府の政策は、個人の自由を抑圧し、民間の商業活動に介入し、最終的には政府権力を肥大化させるためにある。例外はない。

副作用が心配だから、ぜひ今度の選挙の投票では、候補者本人と対面させてもらって、その中身を確かめたいものだ。薬事法ではなく、公職選挙法を対面取引に変えるべきだ。

2009年6月6日土曜日

究極の悪徳

オーストリア学派の経済学者Murray N. Rothbard(1926–95)は、政府が国民から富を収奪して、それを裁量的に「再配分」することに関連して、次のように書いている(日本語試訳はDOTによる)。
経済資源のもっとも重要な性質はその希少性である。土地、労働、資本財などの要素はすべて希少であり、種々の用途のために活用される。それを自由市場が「生産的に」使用することができるのは、消費者が必要とするもの(例えば、馬車ではなく自動車)を生産するように生産者が市場で誘導されるからである。したがって、民間セクターの全生産量の統計は、数字を足しただけのもの、生産量をある単位で数え上げただけのものに見えるかもしれないが、実は、その生産量の計測値には、消費者が購入したいと欲するものが「製品」なのだという、重要で定性的な判断が含まれている。市場で100万台が販売される自動車が生産的なのは、消費者がそう理解しているからなのである。そして売れ残った100万台の馬車は、「製品」になれなかったもの、だろう。消費者はその横をただ通り過ぎるだけだったに違いないのだから。
(マリー・N・ロスバード著『公共セクターという虚偽』)

One of the most important features of our economic resources is their scarcity: land, labor, and capital goods factors are all scarce, and may all be put to various possible uses. The free market uses them "productively" because the producers are guided, on the market, to produce what the consumers most need: automobiles, for example, rather than buggies. Therefore, while the statistics of the total output of the private sector seem to be a mere adding of numbers, or counting units of output, the measures of output actually involve the important qualitative decision of considering as "product" what the consumers are willing to buy. A million automobiles, sold on the market, are productive because the consumers so considered them; a million buggies, remaining unsold, would not have been "product" because the consumers would have passed them by.
(Murray N. Rothbard, The Fallacy of the "Public Sector")
これが意味することは明快だ。Sheldon RichmanがThe Wizards of Washingtonという直近の記事に書いているように、政府が「民間セクターから金を巻き上げて、それによって『雇用を創出』したり、恣意的かつ裁量的なプロジェクトに投資したりすることは、真に生産的な活動ではない」、ということだ。

つまり、そのような政府の活動は、消費者に何ら奉仕しない。生産者と消費者双方に、新しい有益な価値を何も生み出さない。市場に介入することで、非効率と無駄を生み出す。

そして、その裁量的な「投資」や「融資」や「再配分」に影響力を有するのは、常に「政治」であって、それは一部の既得権益を有する企業集団や特権的な階級・階層を利する結果になるのが常である(国家独占的なコングロマリット、ゼネコン、軍需産業や天下り等々)。

巷間、「バラマキ」とか「政府の無駄遣い」などと称されているものの、これが本質なのだ。それは、単なる税金の無駄遣いという以上に悪質だ。政府というものが生来的に有する悪徳なのである。

2009年6月5日金曜日

国立メディア芸術総合センター(仮称)論争

政府と民主党の間で、国立メディア芸術総合センター(仮称)設置の是非をめぐる議論が活発になっている。

「メディア芸術」という言葉がだいたい曖昧だ。どういう媒体の芸術なのかはっきりしない。上の政府の報告書では、「マンガ、アニメ等メディア芸術」といっているので、「マンガ、アニメ等」のことなのだろう。それなら、漫画、アニメーションと表記すべきだ。

ところで、漫画やアニメーションが芸術であるという認識は、一般国民に共有されているのだろうか。漫画やアニメーションはむしろ娯楽であろう。もちろん、漫画やアニメーションという形式で芸術的表現が不可能とは思わないが、それが漫画やアニメーションである以上、「我が国のメディア芸術の海外への発信」といっている対象は、やはり娯楽作品が主になることはあきらかだろう。

そうでなければ、非常に希少な漫画・アニメーションという形式による現代芸術作品だけのために施設を作ることになってしまう。

つまり、「芸術」は、はったりに過ぎない。施設の名称を立派に見せかけるために利用されているにすぎないのだ。

もしそうなら、この国立メディア芸術総合センターとやらを設置したら、日本の漫画・アニメーションの活性化、輸出の増大によって、どれだけの経済効果があるのかを、提示すべきだろう。そして、それによって国民の所得はどれだけ増加するのか。その額よりも設置する経費が少ないのであれば、設置すれば良い。しかし、そんな計算ができるなら税金で作ろうなどという考えは持たないはずだ。採算が合わないから、税金を使って設置するわけだ。官僚にとっては管理すべきポジションと予算項目が増えるという利益にはなる。採算なんか、どうでもよいのだ。

しかし、国債等負債残高が1,000兆円を超えようとしている今、そんなものに大金を投じようなどという政府の愚かさは驚嘆すべきものがある。ぜひ、このセンターが建設されたら、センター設立に賛同した御用「芸術家」の先生方の立派な作品に接して、芸術的感動を味わいたいものだ。

芸術は「官製はがき」ではない。というのがDOTのモットーである。
芸術は私的で主観的なものである。主観と主観との交換である。
岡本太郎氏曰く、「芸術は爆発だ!」
それ以上でも以下でもない。

2009年6月4日木曜日

たいしたことのない経済学者によるマッチポンプ

アダム・スミスやカール・マルクスのような偉大な例外を除けば、特に現在新聞紙上やマスコミに登場する自称経済学者達は単にマッチ・ポンプを演じているだけのように見受けられる。

例えば、竹中平蔵とその仲間達は、いかにも似非自由主義者的なスローガンをいろいろと掲げている。自由化を推進して市場経済にできる限り介入しない、一見リバタリアン的な政策を主張する。

他方で、似非自由主義から転向した(らしい)中谷巌は、竹中らの路線を「新自由主義」と呼んで、これを徹底的に批判している

どちらも、同じ穴のムジナだ。竹中は「三権分立を取り戻せ」などと、もっともらしい政府批判を展開している。たしかに、個別の議論は合理的に聞こえるのだが、ラディカルな問いかけに根ざしていない。三権分立がもし回復したなら、それで良いのだろうか。何も良くないのだ。それは、民主主義の完成ではあるかもしれないが、民主主義の決定的な欠陥は放置されたままになる。そもそも、代議制自体がマヤカシ、インチキなのだから、それを磨いて良く見せかけたところで、良くなるはずがない。議員は国民の代理でも代表でもない。人気投票で高得点をあげた人間というにすぎないのだ。

もし議員が国民の代理人だったなら、国民一人一人、それぞれの言うとおりに国会で発言し活動してもらわなければ困るではないか。現実は、彼らは勝手に自分達の好きなことをやっているにすぎない。彼らは誰の代理でも代表でもなく、勝手に税金を使って高速道路を作ったり、「国立メディア芸術総合センター」などを作ったりしている。代議制の民主主義というのは、壮大なペテンだ。多数者による専制にすぎない。個人の自発的な合意に基づかない、民主主義を偽装する制度なのだ。

また、中谷巌は「そこで私は『還付金付き消費税』方式を提案しているのです。消費税を一律20%にする代わりに、年収1000万円以下の世帯には年間40万円を還付する。 これだと、年間消費が200万円の世帯は、差し引き消費税がゼロということになります。200万円未満の世帯は還付金が消費税額を上回るので、貧困層の所 得をかさ上げすることができます」というコメントを社民党の記事で語っている。

まず、税務署員や国税庁職員の人件費及び徴税に必要なコストを考えてみよう。次に、所得税も消費税もゼロだった場合を想定してみよう。税金がゼロなら税務署も国税庁もすべて不要になる。コストもゼロだ。そして、税金がゼロだったら、あらゆる個人や企業にとってポジティブな経済効果がある。

また、財産権を強権で侵害して徴税する、税金という明かに非合理な制度を廃止することは、個人の自由を発展させ、経済的なインセンティブになりうる。なぜ、税金や政府をはなから前提にして議論をするのか。

上の中谷巌の例でいえば、なぜ、年間消費が200万円以上の世帯は事実上の消費税を支払わなければならないのか。なぜ年収が1,000万円を超える世帯には消費税が減免されないのか。合理的な理由は何もない。恣意的、裁量的な勝手な税率設定でしかない。それで、合法的に金銭を個人や法人から略奪することを合法としている現状は、恐ろしいほどの国家統制といえる。なぜ余計なコストを、そんなものに支払わなければならないのか。

「税金による富の再配分」は一見良い考えに見えるが、それをいう前に、税金自体が不合理だという根本問題を議論する必要があるだろう。政府や徴税制度の存在を常に安全圏に置いて、それを前提とする議論は不合理だ。

人間は政府の奴隷ではない。政府の貯金箱でもない。

いわゆる自称経済学者達の議論は、「新自由主義者」であれ「リベラル派」であれ何であれ、このように不合理な先入観に染まっているのだ。つまり政府の存在をはなから前提としている。だから、マッチ・ポンプになるのだ。永遠にお互いに責任をなすりつけ合っているだけなのだが、それによって、政府の権力と体制は安泰となる。

DOTは、このようなたいしたことのない経済学者達が行っているような議論には意味を感じない。
巷の経済学者はほとんど信用できない。

2009年6月3日水曜日

Government Motors

GMがChapter 11による破産手続きに入ったが、連邦政府が株式の60%を取得し、新たに300億ドルの支援をすることが発表された。つまり、計画的な破産であり国有化だ。

これによって、GMは精算されることはなくなり、再生に向けて活動を始めることになる。政府がそれを支援するわけである。政府としては、最悪の破局的状況である連鎖倒産と失業の増大を回避することができるという算段なのであろう。

しかし、この手法でこれまでに、Big 3の一つだったChryslerやAmerican International Group、Fannie Mae、Freddie Macなどの金融機関を国有化して処理してきたわけだから、もし社会主義という言葉が極端であれば、コーポラティズム(corporatism)と呼ぶことのできる状況になっている。

そして、GMの再生が困難になれば、その損失は新たな政府投資を必要とすることになる。

DOTの視点からみれば、これは政府による非常に偏った形での一部特定企業に対する金融支援であることは間違いはない。しかし、政府がこのようなパターナリズムを正当化することは、現実にはよくあることであり、典型的な政府の行動といえるだろう。その税金の使い方を批判することは間違ってはいないが、そこにはより大きな問題が隠されているとDOTは考える。

それは、金融危機や戦争やテロや、ありとあらゆる「危機」に乗じて、政府は政府権力の肥大化、国民の自由の制限、抑圧、負債の拡大と増税の正当化を行ってきたということだ。

そして、そのために政府は危機を自ら作り出してきたともいえるだろう。その典型が大恐慌とニュー・ディールであった。大恐慌以後の政府権力の膨張については、Robert HiggsのCrisis and Leviathanに詳しい。

騙されてはいけない。政府は危機の際に頼ることのできる救世主などではまったくない

政府は、危機の原因を作り、危機を巧みに利用し、情報を操作して、既得権の維持と権力の拡大を画策する。政府は、徴税による国民の富の収奪を正当化し、それを永続化しようとする企みを危機に乗じて成功裏に展開する。それが政府というものの遺伝子に書き込まれている。

「小さい政府」は似非自由主義者の幻想にすぎない。いや、似非自由主義者の偽善的スローガンにすぎない。DOTは「小さい政府」も「大きな政府」も求めない。

2009年6月2日火曜日

DOTにとって選挙とは?

与党は総選挙の時期をようやく探り始めたらしいが、そんなことはDOTには無関係である。

DOTと選挙との関係は? ない。ゼロ、零、何にもなし、皆無。あっさりとしたものだ。なぜ関係ないの? 有名な言葉を思い出せばわかる。

民主主義は多数者による専制である。
Democracy is tyranny of the majority.

Alexis de TocquevilleJohn Stuart Millが説いたこの言葉は明快だ。代議士はわれわれの代理人か? Noだ。代理人なら、われわれが指示するとおりに、議会で発言し行動しなければならない。彼らは勝手に自分たちの考えで行動しているではないか。選挙は人気投票以外のものではない。選挙で選ばれたからといって代理人として活動し始めるわけではない。

つまり、議会制民主主義なるものは、あたかも議員が国民の「代理人」や「代表者」であるかのうように偽装して、議員と官僚が好きなように税金と権力を使うための制度でしかない。個々人とのあいだでの自発的な合意と契約に基づかない「代理人」や「代表者」などありえない。

DOTと選挙に関係がないなら、DOTは誰に投票するのか? DOTはどの政党を支持するのか? これまた、答えは簡単だ。

好きにすればよい。
投票するもよし、棄権するもよし、好きな政党や議員に投票するもよし。

ただし、全体主義や極端な国家統制を指向する政治家が当選することを避けるために、より自由主義的・民主主義的な思想の持ち主に投票することは重要だろう。けれども、それら「よりましな」候補者を積極的に評価してのことではない。

2009年5月31日日曜日

いわゆる改革派について

いろいろな大臣を務められた竹中平蔵氏は、いわゆる小泉内閣での改革を推し進めた人物として評価されている。自由主義的な(部分的にリバタリアン的な)政策を行おうとしたと巷ではいわれている。そのため、社会主義者やリベラル派からは批判されることが多い。しかし、ここでは、竹中氏個人の業績について論評するつもりはない。

竹中氏や小泉氏のように、与党にあって「改革派」と呼ばれる政治家が行った「改革」が、本当に政府の機構と権力の縮小、つまり「小さな政府」を作るにあたって成功したのかを確認したいのだ。つまり、政府は小さくなったのか、という点だ。

何も小さくなっていない。財務省の資料を見ればわかる。
一般会計における歳入歳出の状況

一般会計は2000年代に入ってからずっと高水準で推移している。2006年度に低下したものの、以後増加傾向にある。小泉内閣が大幅な歳出削減を行ったと断定できるような材料は見あたらない。また、財務省のQ&Aを読むと、特別会計は「近年は減少か傾向にあります」とあるが、それは国債の償還や社会保障費などを除いてはじめていえることなのだ。つまり、政府予算は減少せず、国債償還や社会保障費の増加などで、自縄自縛の傾向にあるわけだ。

国家予算が減少傾向にあるとは、到底いえない。それで改革派といえるのか。

竹中氏や小泉内閣を持ち上げて、まるで自由主義者の英雄であるかのようにいう人がいるが、それは違うのだ。彼らの「改革」は政府を小さくすることに役立ってはいない。

もちろん、彼らの主張が政府のさらなる肥大化にあるとはいわない。しかし、彼らの「改革」がもっと成功していたとして、国民は何を得られたというのか。これは、最近のバラマキ予算にもいえるが、財政の改善と引き替えの増税である可能性が高い。

「改革」の代償が増税なら、彼らが主張する自由化や民営化は、あくまで政府の改革であって、国民生活の改善のための改革でも、自由化でも民営化でもない、ということになる。彼らは、機能的で効率的な政府を作ろうとしているだけなのだ。政府による国民からの収奪を阻止するための改革ではないのだ。彼らの「改革」は国民のためにならないのだ。それは、自由主義者のいう「小さな政府」ではない。偽物の改革だ。偽物の自由主義だ。

さらに重要なことは、巷間で「改革」を主張する政治家やマスコミや経済学者の99.99999999999%は、この手の似非自由主義者、似非リバタリアンといえるのではないか。政府や官僚を批判し、「改革」で人気をとるが、それは権力を掌中にする手段でしかなく、ずっと政府権力を温存し続けるだけで、政府の縮小には何ら貢献しないのだから。

そういう手合いに騙されてはならない。いわゆる「改革派」の主張は、ラディカルな思想に根ざしてはいない。体制迎合であるか、よくて折衷主義である。それは、自由主義ではない。

自由主義は、歴史的に、本来ラディカルな思想である。アクトン卿の言葉を引用する。
Liberalism wishes for what ought to be, irrespecttive of what is.
自由主義は、存在しているものではなく、存在しなくてはならぬものを希求するのだ。
(Himmelfarth, Lord Acton, p. 204).
DOTは似非自由主義を廃し、真の自由主義を指向する。

裁判員制度は廃止すべきだ

裁判員制度なるものが始まった。すでに裁判員制度や陪審制度の議論は尽くされている。歴史が長いからだ。だから、DOTの主張は単純である。長い議論など不要である。

裁判員制度は廃止すべきだ。

なぜか、それは、一部の免除規定にあてはまる場合を除いて、政府権力が強制的に裁判員として徴用し、一律の日当しか支払わないからである。本人の意思を無視し、労働条件を勝手に設定して使役するわけだから、これは徴兵制度と同じ強権の発動であり、個人の自己決定権の剥奪であり、国家による
と労働の強制であり収奪である。

裁判員として働いて欲しければ、公募をして、その作業内容と労働条件に合意し自発的に裁判員になりたい人間を採用すればいいのだ。

裁判員制度は、徴兵制度のリハーサルのつもりなのかもしれない。即刻廃止すべきだ。国民は政府の奴隷ではない。

これが、DOTの考えである。難しく考える必要はないと思う。いかがかな?

2009年5月30日土曜日

国有企業は存在しえない

読売新聞2009年5月30日18時48分
「私が認めない取締役存在し得ない」郵政社長人事で総務相

日本郵政に対して何度となく介入的な発言を繰り返している総務相は政治家なのだ。だから、政治的に振る舞う。税金を使っていろいろと口出しする。これは避けられない。

しかし、郵政は完全民営化するのではなかったのか。

飛脚や伝書鳩から始めるつもりで、民営化を促進すべきだろう。もはや国有企業は存在しえない。そして、いつかの日か、政府も存在し得なくなるだろう。これが、DOTの超長期予想である。

2009年5月27日水曜日

健康増進法は政府肥大化法に過ぎない。喫煙者よ起て!

外務省のページによれば、「たばこの規制に関する世界保健機関枠組条約」(Framework Convention on Tobacco Control)を日本は受諾しているとのこと。また、「健康増進法」なる法律が制定され、それは、次のように書いている。

第二十五条  学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所、官公庁施設、飲食店その他の多数の者が利用する施設を管理する者は、これらを利用 する者について、受動喫煙(室内又はこれに準ずる環境において、他人のたばこの煙を吸わされることをいう。)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない

の法律を実施するために派生的な法律や条令などが作られているようだが、これは明らかに非合理だ。その理由について、次に説明したい。

わが国が全体主義的な独裁国家や社会主義国家でないのであれば、上にある「官公庁施設」を除けば、「学校、体育館、病院、劇場、観覧場、集会場、展示場、百貨店、事務所」と「飲食店その他の多数の者が利用する施設」のすべてが国営であるわけがない。例えば、劇場のオーナーが健康に対する煙草の影響を懸念して、劇場全部を禁煙にしたり、一部を禁煙にしたりすることがあっても不自然ではない。逆に、全館を喫煙を可能にして喫煙者のニーズに応えようとする劇場オーナーがいても、やはり不自然ではない。では、喫煙の習慣のない者はどうしたらよいのか。単純である。禁煙やいわゆる「分煙」を実行している劇場に行けばよいのだ。愛煙家が無理して禁煙の劇場に行く必要がないのと同じである。これは、個人の自由である。

いかなる理屈で、政府が、官庁や国営以外の施設の管理者に対して、「受動喫煙(中略)を防止するために必要な措置を講ずるように努めなければならない」などと命令する法律を作ることができるというのか。

「受動喫煙」を避けるために喫煙者のいない場所に移動する自由は誰もがもっているはずではないか。喫煙者が他人の手足を椅子に縛り付けて煙草のケムリを吹きかけているとでもいうのか。

この法律は、憲法第13条が保証する個人の幸福追求権を侵害しているといわざるをえない。

健康増進は個人の課題である。個人の喫煙や飲酒は、その健康への影響とそこから得られる楽しみとのトレードオフを判断した上で、その量や回数を各自がコントロールすればよいのである。その自己決定権を軽視する法律に合理性はない。

喫煙者が比例的に多かった時代には、非喫煙者の声は相対的に小さく、喫煙者の数が少なくなると、非喫煙者の声が大きくなる、ということはあるかもしれない。しかし、喫煙者が非喫煙者を監禁・拘束して煙草を吸わせていない以上、施設を禁煙とするか喫煙可能にするか、「分煙」にするかは、その施設の所有者の裁量の範囲でなければならない。その施設の管理者に、喫煙に関して、特定の何かを努力させるような権限を政府がどうやったら持ち得るのか。

そもそも、「受動喫煙」という言葉自体が、虚偽であり、それ自体が自己撞着なのである。受動的な喫煙などというものはありえない。喫煙者はすべて能動的に喫煙しているのだ。たとえば、隣の人が煙草のケムリをあなたに吹き付けたとする。あなたは煙草が大嫌いだとしよう。当然、そこであなたは不快を訴え、煙草を消してくれないかと要請するだろう。あるいは、その場を立ち去るかもしれない。つまり、隣人のケムリがあなたの同意なしにあなたが所有する自己の呼吸器官に吹き込まれたことについて、その当事者に抗議し、何らかの合意を成立させるか、その場を立ち去ることで解決するか。解決手段は与えられているのである。大人数の喫煙者のいるバーやホールのような場所で交渉が無理であれば、立ち去れば良いのだ。

つまり、「受動喫煙」というのは決して、喫煙ではない。単に、合意に基づかない煤煙の押しつけなのである。だから、そのことを不快に感じるのも当然であるし、その健康への影響を懸念することも理にかなったことだ。

しかし、それなら、なぜ能動的にその問題を解決する方策をとらないのか。なぜ政府に頼るのか。なぜ税金を使って、役人に馬鹿げた法律を作らせるのか。愚かとしかいいようがない。政府のナンセンスなお節介、個人の自己決定と自由に対する政府の介入を、自ら高い税金を払って増強しているのに等しい。政府権力の肥大化にただひたすら貢献するだけだ。自虐的というのは、こういうことをいうのだ。

個人の自律性と自己決定の重要性を忘れたら、政府に生涯にわたって収奪され、洗脳され、好きな煙草を吸うことも遠慮してしまうようになる。それでは奴隷ではないか。

徹底的にリバタリアニズムの理論を追求した、オーストリア学派の経済学者Murray Rothbardの決定的な言葉を引用したい。
Smokers, rise up, be proud, throw off the guilt imposed on you by your oppressors! Stand tall, and smoke! Defend your rights!

喫煙者達よ、起ち上がれ、誇りを持て、抑圧者によって植え付けられた罪の意識をかなぐり捨てよ! 背を伸ばして起って煙草を吸え! 君たちの権利を防衛せよ!

Murray Rothbard, America's Most Persecuted Minority
(マリー・ロスバード、『アメリカでもっとも迫害されている少数派

2009年5月24日日曜日

DOTは、自由主義とどう違うか?

自由主義者といって誰を思い浮かべるか。現代の日本なら、小泉元首相とか竹中平蔵氏とか昔の小沢一郎氏?

もし、あの手の政治家の思想を自由主義というなら、DOTが指向するものとは天文学的に違う。英米のMargaret ThatcherやRonald Reaganなどについても言えることだが、あの手の「自由主義者」は、彼らの日常的な党利・党略の蠢く政治における戦術の出発点として自由主義を捉えている。つまり、他の政党との駆け引きによって政府をいかに使うかに役立つ「主義」なのである。彼らの仕事は他の政党や議員との競争に打ち勝って、予算を獲得して自らが主張する政策を政府にやらせることである。そして自らの政治的影響力を拡大することだ。しかし、彼らの存在自体が政府に依拠しているのだから、そこで構想される「改革」や「政策」は、政府と政府が行う施策を根底から革命的に変革するものとはなりえない。そもそも、そんな変革をやろうとすれば、何よりもまず、政治や社会のあり方を根本から、ラディカルに構想して理論武装しなければいけなくなる。そんなことをやっている政治家は今や世界中どこにもいない。彼らの「自由主義」は見慣れた、既にある「自由主義」であって、本来の自由主義の根本を見据えて、それを創造的に発展させようとするものではない。それは、永田町と霞ヶ関に都合の良い自由主義であり、財界に奉仕する自由主義であるに過ぎない(残念ながら、それにすら失敗しているのが現状なのだが)。

しかし、例えばアメリカ建国の父たち、例えばThomas Jeffersonにとって、自由とは、アメリカ独立革命によって新しい共和国を打ちたて、そこに市民による自由な共同体を築くことをとおして獲得されるものであった。そこには大きな思想と知的な戦略が必要とされた。その思想は、既成の政府や軍隊を超越した次元で、まずは構想される必要がある。なぜなら、自由とは政府や軍隊が作って人々に与えるものではなく、人々が自ら発見し、獲得し発展させるものだからだ。ある意味で、自由とは、自由を発見し、その意味を学習し、さらに拡張させる人間の潜在的で自己循環的な運動力なのであろう。

DOTはアメリカ独立革命におけるJeffersonの思想と実践の重要性を認める。それは、いわゆる自由主義とは異なる。使い古された「自由主義」やら「リバタリアニズム」やら「リベラリズム」を捨て去ったところに、DOTがある。



エコポイントと経済のエコロジー

エコポイントなるものを政府は始めるらしい。
グリーン家電製品を購入された方々は、様々な商品・サービスと交換可能なエコポイントが取得できます」
「グリーン家電製品」とは、エアコン、冷蔵庫と地上デジタル放送対応テレビの3種類なのだそうだ。これは、一見、電力を消費する旧型の電化製品を電力をより消費しない製品に置き換えることで、環境対策になるように見えるかもしれないが、そんな保証はどこにもない。むしろ、史上まれに見る愚かな政策のように思えてくる。

まず、なぜこの3種類しか対象にならないのか。非合理だ。次に、支給されるエコポイントなるものが何と引き替え可能なのかが、まだ決まっていない。それならメリットがはっきりしないではないか。

さらに、これは一種の景品だから、割引と同様、「グリーン家電製品」の売り上げ促進効果があるだろう。だからこれは、明かな政府による税金を使った市場経済への介入だ。そして、売り上げを促進するのだから、環境対策には一方で負の効果が生じることは明かだ。古い製品を全量回収できるかどうかも明かでない。地デジ対応テレビが対象になっていることを考えると、これは環境対策なのではなく、景気対策なのではないか。それなら、エコポイントという名前は国民をミスリードしている。

では、景気対策としてはどうか。それも疑問である。この制度が何年も続く保証はない。一定期間の売り上げ増はありうるが、継続した効果は期待できない。また、その3つの製品だけに効果があるので、他の製品の価値を相対的に減損するのではないか。それは、メーカーにとっては、将来にわたる投資と資源配分を誤らせる可能性があり、経済的な非効率を生む可能性を孕んでいる。

さらに、特定業種だけを対象としているのは、公平性に欠ける。

そもそも、恣意的に3つだけの製品を選んでそれに景品を与えること自体が、無意味な市場経済への介入であろう。その制度が終了した時点で、そこで生じた不経済と、すべての費やされた税金よりも、その売り上げ効果と環境への効果の方が大きい保証はどこにもないではないか。

消費者が購買するものを誘導しようとすること自体が、無意味であるし、税金の濫用であろう。買い換えなくても良い製品を買い換えさせるように誘導すること自体が、やはり無駄である。

もし、持続的に環境対策の強化と景気の浮揚を達成したいのであれば、このような無駄な、効果のはっきりしない政策に税金を費やすのではなく、法人税と所得税と消費税等の減税を行って、生産と消費を活性化することが必要だ。

メーカーに新技術の開発を促し、環境分野での新しいビジネスの形態を開拓するインセンティブを継続的に与え続ける必要があろう。一時的な景気対策ではなく、持続的な富の創造のための仕組みづくりが必要なのである。そのための創造的破壊と変革が、今求められているのだ。政治と行政は経済のエコロジーを乱すな。

2009年5月23日土曜日

DOTとは何か

DOTとはDecOnstructed Thatcherismの頭文字だ。
しかし、その頭文字には意味はない。DOTはDOTだ。
DOTは合理的思考のフレームワークだ。
DOTは美意識のフレームワークだ。

DOTは自分がDOTだと信じている人間のことだ。
ただし、DOTはリバタリアニズムを指向する。右でも左でも上でも下でも手前でも奥でもない。
DOTの着想の原点は、John Lockeの自然権思想を理論的なよりどころとして無政府資本主義を指向したMurray Rothbardのリバタリアニズムにあった。しかし、彼の思想だけに執着するものではない。しかし、Rothbardが行ったのと同様に、DOTでは、ラディカルな問いを常に重視する。

その思考方法は相対化を指向する。何かを主観的に絶対視することはない。
主観を自分以外の他の思想やイデオロギーに埋没させたり同化させることをしない。

その美意識は、伝統と前衛との間の相互作用と相互依存に注目する。
伝統の内に前衛を見いだし、前衛の内に伝統を見いだす。

部分と全体とを共に見つめる。

光の内にある光の差異を見つめる。暗黒の内にある暗黒の差異を見つめる。
沈黙と音、ノイズと楽音のどちらにも耳を傾ける。

DOT movie: Who's affraid of Margaret Thatcher?: