2009年6月28日日曜日

DOTゲーム大賞発表




映画であれ、TVゲームであれ、何であれ、質の高いエンターテイメントは、単なる暇つぶし以上の満足感を与えてくれるものだ。大昔なら、メガネの有名なハロルド・ロイドの喜劇、エロール・フリンの海賊映画だろうか。その後の世代なら、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズの天才的なダンスの妙技か。

デジタル時代には、映画だけでなく、TVゲームやPCゲームがある。残念ながら、力作は多数あるが、深い余韻のある作品は少ない。

そこで、最近のPCゲームのなかから、DOTが一つを勝手に選んで大賞としたい。さて、その最高傑作はこれだ。

DOTゲーム大賞2009: Crayon Physics Deluxe by kloonigames.

上に述べたように、これ以外にも力作は多いのだが、この大賞受賞作のコンセプトの斬新さは卓越している。何百人がかりの大手メーカーの大作や美しいコンピュータグラフィクスも、この作品のコンセプトの秀逸さには及ばないと思う。ぜひ、デモ版でもよいから試されることを推奨する。

DOTからのコメント
物理法則をある程度忠実に反映しつつ、初心者でも継続的に遊べる。じっくりと考えながら遊ぶことができる。思考を要求するゲームだが、難しすぎるわけではない。子供から大人まで幅白い層に受け容れられるだろう。クレヨンで描いていくスタイルが、いろいろ試してみたい気持ちにさせてくれる。きわめて独創的なゲームだ。

ちなみに、昨年度分も決めてしまおう。

DOTゲーム大賞2008: Portal by Valve

DOTからのコメント
PortalはCrayon Physicsと異なり、有名なPCゲーム・メーカーの製品だ。とはいえ、お得意の3Dグラフィクス+物理モデルを、戦闘ゲームや航空機のシミュレーターに利用するという常套を選ばず、シュールリアルな3次元空間に応用した点に独創性がある。ユーモラスなロボットや音楽も、ストレス解消指向の従来のアクション・ゲームにはない情趣が感じられる。

もちろん、これら以外にも独創的なゲームは多いに違いない。ひと味違ったものを一つ選んで、ゲーム・プログラムの多様性を味わうというのも一興であろう。

2009年6月26日金曜日

DOTの絵画論序説



横山大観(1868~1958)が男爵・大倉喜七郎がスポンサーしたローマでの日本美術展覧会に出品した大作、『夜桜』は、絢爛豪華な色彩と暗闇との対照を見事に描いている。力強く、伝統に根ざしながらも真に新しい日本画の創造という大きな課題に取り組んだ横山大観の意志があふれるばかりである。

しかし、この大作は、それ以前に富田渓仙(1879~1936)が描いた『祇園夜桜(1921)に触発されている、といわれている。実際、渓仙死後、大観はこの作品を買い取って、死ぬまで愛蔵したという。

渓仙の才能を賞賛していた大観は、渓仙の夜桜の凄さがよくわかっていたはずだ。この2つの夜桜は、まったく異なる印象を与える。渓仙の作品に、大観作品のような華やかさはない。表面的な力強さにも劣る。渓仙作品は大観作品が屏風であるのと違い、画面も小さい。

しかし、渓仙の『祇園夜桜』には、夜桜のはかなさが見事に表現されていて、深い余韻が感じられる。それは、大観もまた、主題の華やかさと対照させるようにして描こうと意図していたものに違いない。しかし、どちらが成功しているかといえば、やはり渓仙作品に軍配が上がる。

力強い意志と画才、技量によって、巨大な画面を支配しコントロールしようとする大観の作品もまた傑作であることに違いはないが、その強い意図・意志の力が、目標達成寸前のところで、逆効果となっているのではないか。画家が画面をすべて支配しようとすると、罠にはまる。画家の意図の及ばない部分が画面には必要なのではないか。

渓仙作品にあっては、画家の意図や意志は、表面的には強く打ち出されていない。しかし、深い背後の暗黒の内に隠されている。それによって、夜桜がもつ華やかさとはかなさという二面性が、対照的にしかし間接的に見事に表現される。

何らかの情趣を、直接的に、あからさまに表現することなく、しかし結果的にいかに鑑賞者に伝達することができるか。ここに視覚芸術におけるコミュニケーションの秘訣がある。

これが、DOTの絵画論序説である。

2009年6月25日木曜日

DOTは都市景観をどのように考えるか



東京の歌舞伎座の改築に関して、議論がある。「事前調整段階で石原知事から『銭湯みたいで好きじゃない』『オペラ座のようにしたほうがいい』などと注文がついた」という声もあったようで、政治的な介入があったのかなかったのか。どちらにせよ、低層部は、現在の歌舞伎座のファサードを模しつつも、装飾は抑えられて垢抜けしてしまっているし、その背後には幾何学的で無機的な高層のカーテンウォールがそびえる。

松竹の持ち物なのだから、基本的に建替えること自体は松竹の自由である。だからといって外野が議論をして悪い理由もないのだから、松竹の建替え案に賛成・反対があるのは自然なことだ。

DOTは、この種の景観保存論争あるいは歴史的建築物保存論争は、いつも重要な点を見落としていると考える。論争がナンセンスだとは考えないが、論争するならば、論争すべきポイントを見落としてはならない。では、そのポイントとは何か。

それは、建築とその固有の空間の存在を意識できるか否か、という評価軸の重要性である。

歴史的建築の保存が、しばしば安易な改築よりも好まれるのは、ただ古い建築物を残すこと自体に価値があるためではなく、歴史的建造物が、その利用者に対して、その建築物の存在とその固有の空間を意識させ、建築物およびその空間との三次元的で感覚的な交感を可能とさせているからではないか。それは、建築における芸術的な体験なのである。

もし、改築・新築される建築物が、従来の建築物より以上に豊かな芸術的価値を利用者に提供することができるのであれば、古い建築物の保存にこだわる必要はない(別に、文化財としての価値を考慮する必要はあるが)。

現代の建築家が、ただ古風な様式を真似ただけの建物よりも優れた建築物を創造することができるのであれば、建て替えればよいではないか。そう考える。現代の建築家にチャンスを与えるべきである。

では、DOTは東京・歌舞伎座の建替えを支持するのか? それは、Noだ。

上記リンクの記事を読み、改築案の完成予想図を見るかぎり、ファサードだけはオリジナルの外形的な特徴を残しながら、しかし細部の装飾は削除したために、オリジナルの様式性は完全に破壊されている。結局は単なる普通の高層ビルを建てる、ということでしかないように思えるからである。これでは、オリジナルの建築に寄生してそれを食い尽くしてしまう病毒菌と同じではないか。どこに建築家の創造性とオリジナリティがあるのか。

DOTは、常に精神的に豊かな体験を与える建築空間を指向する。

2009年6月14日日曜日

DOTの指向する芸術(その2)



さて、次のYouTubeのリンクに、ある音楽の学生(?)が演奏するScriabinのピアノソナタ第一番の「葬送」がある。

(G. Imperato) Scriabin Sonata No.1 Op.6 4mov. Funebre

ピアノの専門家には、それなりに専門的なコメントがあることだろう。しかし、その技術的なレベルとは無関係に、この録音には、Scriabinの音楽のエッセンスが感じられる。それは、潜在意識の世界を垣間見させるような、深淵なのだ。表面上の音響の美しさなどは、どうでもよくなる。

魔力的な深さ、呪術的な恐怖、永遠に解けない謎、暗黒の音楽だ。Scriabinはその暗黒の中を、光を求めて、光があるという確信をもって、さまよう。

Scriabinのピアノ曲の独創性は、当時としては斬新な作曲技法を駆使しながら、この暗黒の世界を実現したことにある。他に追随する者がいない。

そして、そのエッセンスを理解した演奏者であれば、学生でも演奏することができる。しかし残念ながら、優秀な演奏家であっても、その点の理解ができていないと、ただ美しく技巧的なピアノ曲の演奏というだけに終わってしまうのだ。

DOTは、異端の内に真の正統を発見しようとする。破壊の内に真の創造の可能性を見いだそうとする。そして、単に評論家にもてはやされる流行品の下手物の類を軽蔑し、それらと真の異才の作品とを峻別する。DOTは似非芸術趣味と浅はかなディレッタンティズムとを排除する。

DOTは天上と地獄の芸術をともに希求する。

国民総背番号制に反対する

以前から議論のある、国民総背番号制を導入しようという声が高まっている。税の不公平をなくそうという観点からの賛成意見である。主な主張は、以下のような記事に典型的だ。

【ネット時評 : 前川 徹(サイバー大学)】
「総背番号制」に反対するのは誰か?――年金騒動に思う

この手の議論は、似非自由主義者の十八番だ。彼らがいうところの効率化や合理化は、すべて政府の支配を効率化し、合理化することにつながるのだ。また、それによって、「小さな政府」を実現する一つの手法として、年金や福祉に関する複雑な処理を簡素化した税制に集約することで、例えば負の所得税ベーシックインカムなどによる富の再配分を効率的に実現できるという主張である。

DOTはこう考える。こんなものはすべてマヤカシだ、と。

なぜマヤカシなのか。なぜなら、租税自体が、マヤカシだからである。何のマヤカシなのか、それは合法的な窃盗であり強権による国民の富と労働の収奪だということを、政府が何か良いことを行う仕組み、そのための国民による寄付であるかのように偽装しているからである。寄付なら、払わない自由があるはずだろう。

課税自体が、自発的な合意による交換を原則とする自由主義経済と明らかに矛盾する。ベーシックインカムなどという、つまりは、一種の累進課税に過ぎないトリックが、市場経済と矛盾することはいうまでもない。

似非自由主義者(つまり自称リバタリアンや俗称「新自由主義者」、実は「国家統制主義者(statist)」)たちは、国民総背番号制による「税の公平性」と引き替えに、国民の財産権を収奪する徴税の効率化という政府の犯罪的行為に加担する愚かな陥穽にはまっているのだ。しかも、それに気づいていない。

合意による交換に基づかない取引が富を生むことはありえない。政府による「富の再配分」自体が非効率で無駄につながるのである。

さらに、政府の徴税官吏に個人の商活動や日常の購買活動まで監視される危険のある技術的な仕組みを与えることが、個人の自由を制約することにつながりかねないことは自明だろう。

裁判員制度も、国民総背番号制も、すべて、政府による個人の管理と、自由の制限、国民の富の収奪のための恐るべき武器なのだ。騙されてはいけない。

税の不公平を解消する唯一最善の方法は、税をすべて撤廃することである。

2009年6月13日土曜日

DOTの指向する芸術

DOTは芸術をどのように考えるか。一言でいうなら、岡本太郎が語った「芸術は爆発だ」で十分なのだ。しかし、さらに付け加えることも可能だ。

芸術は爆発だ。それは、人間の意識と無意識が、技術に支えられて生み出す、形態、音響、色彩等々の特殊な組み合わせなのだが、それは作り手と鑑賞者の双方に直観的なコミュニケーションを成立させる爆発的な力をもつ。

特に美術や音楽においては、芸術は、言葉の表現領域や意味の世界を超越しなければならない。美術や音楽は言葉の芸術であってはならず、論理や言語の技芸ではない。例えば、絵画の中で、意図的に寓意的あるいは象徴的な要素を用いることがあったとしても、それらが鑑賞者の脳裏に明示あるいは暗示する意味は、その絵画の効果を支える副次的な要素でしかないということだ。意味は、美術や音楽におけるコミュニケーションを成立させている本質的な要素ではない。具体的な形、表現形式の直観的な把握にこそ、美術や音楽の本質なのだ。

だから、美術史や分析的な絵画研究は、参考としては役立つことはあるが、それらによって、美術や音楽の鑑賞というものの働きを説明できるわけではない。

芸術を客観的に説明することは不可能だ。なぜなら、それは主観に依存しているからだ。

つまり、DOTは、視覚・音楽芸術において、具体的な表現形式と主観性を重視する。言葉や意味を副次的にしか取り扱わない。直観的に姿を捕捉することがもっとも重要と考える。

2009年6月12日金曜日

馬鹿げた茶番劇 日本郵政社長人事

日本郵政社長人事が難航しているが、まったくの茶番劇だ。DOT(どっと)大笑いだ。

鳩山邦夫総務相が西川善文社長の続投に反対し、それに対して他の閣僚や自民党内には続投に賛成の意見が多く、閣内不統一の状況になりつつある。首相が最終的に決断をする必要がある。

しかし、そもそもこんな意味のない事に一国の首相の貴重な時間を割かなければならないとは、まったく政治の貧困だ。では、なぜ意味がないのか。DOTが説明しよう。

法律では、総務相が日本郵政の人事の認可を行うことになっている。だから、鳩山氏が社長続投に反対することは可能だ。

他方で、「郵政民営化」と呼んでいる政策自体が、民営化とは名ばかりで不完全なものだ。日本郵政の株式は現在100%政府保有であって、2017年までに上場した場合でも相当数の株式を政府が保有する見込み。また、日本郵政が自社が保有する株式を売却するのは、郵貯銀行と郵便保険会社だけに限定されている。つまり、日本郵政が持ち続ける郵便局会社と郵便事業会社の大株主は事実上、政府なのだ。

したがって、「郵政民営化」などと呼んでいるものの実態は、国家独占資本を生み出すことに他ならない。こんなものは、市場経済にとって何のプラスにもならない。茶番だ。

だから、鳩山総務相が社長続投に反対するのは、郵政民営化の方向に歯止めをかけるための政治的な介入だと言ったところで、意味はない。総務相は日本郵政という国有会社の唯一無二の大株主なのだから。総務相を更迭できるとすれば、閣内不一致の責任をとらせるしかない。

しかし、どっちに転んでも同じだ。単に自民党内の政治勢力間の抗争でしかないのだから。

その対立は、政府の市場支配に関してどの政治勢力が主導権を握るか、という点での違いでしかない。政府の市場支配は「民営化」後も揺るがないのだから。

2009年6月7日日曜日

悪政府の仕業、改悪薬事法

DOTは新しい言葉を作った。その名も、悪政府
悪政府 = misgovernment
「悪政」を行うのが政府だからだ。これは、英語のmisgovernmentの意味の一つに由来している(Oxford English Dictionary 2nd Ed.にある、Bad government of a country or state. . . .に由来する)。

悪政府が立派に仕事をしていることが伺えるニュースが、薬事法改悪だ。

医薬品に副作用や危険性があっても不思議でも何でもない。副作用や危険性があるからといって、医薬品販売を制限するのはナンセンスだ。医薬品を副作用や危険性の強度に応じて分類するまではよい。その情報を一般に広く知らしめることは重要だろう。しかし、なぜ販売を制限しなければならないのか。対面販売でないから、インターネットで注文できないようにする? 販売方法の多様化を妨害することは、営業妨害だろう。

そのような規制強化を正当化することに合理性はない。医薬品をインターネットで販売している業者は、医薬品には副作用はないから、どんどん不必要に買って飲めと言っているわけではあるまい。強制的に買わされているわけでもあるまい。利用者は自発的に購買しているのだ。

民間の商業活動を、恣意的に制限する複雑怪奇な法律や省令を作って民間業者を弾圧し、商業活動を圧迫し、市場経済に介入し歪める。

我々は、政府を税金を払って雇ったつもりになっているが、それは違う。悪政府という存在は、国民の富を強制的に収奪し、その活動を規制し、価値と富の創造を妨害しながら、国民に寄生し続ける邪悪な存在なのだ。そして、あらゆる政府の政策は、個人の自由を抑圧し、民間の商業活動に介入し、最終的には政府権力を肥大化させるためにある。例外はない。

副作用が心配だから、ぜひ今度の選挙の投票では、候補者本人と対面させてもらって、その中身を確かめたいものだ。薬事法ではなく、公職選挙法を対面取引に変えるべきだ。

2009年6月6日土曜日

究極の悪徳

オーストリア学派の経済学者Murray N. Rothbard(1926–95)は、政府が国民から富を収奪して、それを裁量的に「再配分」することに関連して、次のように書いている(日本語試訳はDOTによる)。
経済資源のもっとも重要な性質はその希少性である。土地、労働、資本財などの要素はすべて希少であり、種々の用途のために活用される。それを自由市場が「生産的に」使用することができるのは、消費者が必要とするもの(例えば、馬車ではなく自動車)を生産するように生産者が市場で誘導されるからである。したがって、民間セクターの全生産量の統計は、数字を足しただけのもの、生産量をある単位で数え上げただけのものに見えるかもしれないが、実は、その生産量の計測値には、消費者が購入したいと欲するものが「製品」なのだという、重要で定性的な判断が含まれている。市場で100万台が販売される自動車が生産的なのは、消費者がそう理解しているからなのである。そして売れ残った100万台の馬車は、「製品」になれなかったもの、だろう。消費者はその横をただ通り過ぎるだけだったに違いないのだから。
(マリー・N・ロスバード著『公共セクターという虚偽』)

One of the most important features of our economic resources is their scarcity: land, labor, and capital goods factors are all scarce, and may all be put to various possible uses. The free market uses them "productively" because the producers are guided, on the market, to produce what the consumers most need: automobiles, for example, rather than buggies. Therefore, while the statistics of the total output of the private sector seem to be a mere adding of numbers, or counting units of output, the measures of output actually involve the important qualitative decision of considering as "product" what the consumers are willing to buy. A million automobiles, sold on the market, are productive because the consumers so considered them; a million buggies, remaining unsold, would not have been "product" because the consumers would have passed them by.
(Murray N. Rothbard, The Fallacy of the "Public Sector")
これが意味することは明快だ。Sheldon RichmanがThe Wizards of Washingtonという直近の記事に書いているように、政府が「民間セクターから金を巻き上げて、それによって『雇用を創出』したり、恣意的かつ裁量的なプロジェクトに投資したりすることは、真に生産的な活動ではない」、ということだ。

つまり、そのような政府の活動は、消費者に何ら奉仕しない。生産者と消費者双方に、新しい有益な価値を何も生み出さない。市場に介入することで、非効率と無駄を生み出す。

そして、その裁量的な「投資」や「融資」や「再配分」に影響力を有するのは、常に「政治」であって、それは一部の既得権益を有する企業集団や特権的な階級・階層を利する結果になるのが常である(国家独占的なコングロマリット、ゼネコン、軍需産業や天下り等々)。

巷間、「バラマキ」とか「政府の無駄遣い」などと称されているものの、これが本質なのだ。それは、単なる税金の無駄遣いという以上に悪質だ。政府というものが生来的に有する悪徳なのである。

2009年6月5日金曜日

国立メディア芸術総合センター(仮称)論争

政府と民主党の間で、国立メディア芸術総合センター(仮称)設置の是非をめぐる議論が活発になっている。

「メディア芸術」という言葉がだいたい曖昧だ。どういう媒体の芸術なのかはっきりしない。上の政府の報告書では、「マンガ、アニメ等メディア芸術」といっているので、「マンガ、アニメ等」のことなのだろう。それなら、漫画、アニメーションと表記すべきだ。

ところで、漫画やアニメーションが芸術であるという認識は、一般国民に共有されているのだろうか。漫画やアニメーションはむしろ娯楽であろう。もちろん、漫画やアニメーションという形式で芸術的表現が不可能とは思わないが、それが漫画やアニメーションである以上、「我が国のメディア芸術の海外への発信」といっている対象は、やはり娯楽作品が主になることはあきらかだろう。

そうでなければ、非常に希少な漫画・アニメーションという形式による現代芸術作品だけのために施設を作ることになってしまう。

つまり、「芸術」は、はったりに過ぎない。施設の名称を立派に見せかけるために利用されているにすぎないのだ。

もしそうなら、この国立メディア芸術総合センターとやらを設置したら、日本の漫画・アニメーションの活性化、輸出の増大によって、どれだけの経済効果があるのかを、提示すべきだろう。そして、それによって国民の所得はどれだけ増加するのか。その額よりも設置する経費が少ないのであれば、設置すれば良い。しかし、そんな計算ができるなら税金で作ろうなどという考えは持たないはずだ。採算が合わないから、税金を使って設置するわけだ。官僚にとっては管理すべきポジションと予算項目が増えるという利益にはなる。採算なんか、どうでもよいのだ。

しかし、国債等負債残高が1,000兆円を超えようとしている今、そんなものに大金を投じようなどという政府の愚かさは驚嘆すべきものがある。ぜひ、このセンターが建設されたら、センター設立に賛同した御用「芸術家」の先生方の立派な作品に接して、芸術的感動を味わいたいものだ。

芸術は「官製はがき」ではない。というのがDOTのモットーである。
芸術は私的で主観的なものである。主観と主観との交換である。
岡本太郎氏曰く、「芸術は爆発だ!」
それ以上でも以下でもない。

2009年6月4日木曜日

たいしたことのない経済学者によるマッチポンプ

アダム・スミスやカール・マルクスのような偉大な例外を除けば、特に現在新聞紙上やマスコミに登場する自称経済学者達は単にマッチ・ポンプを演じているだけのように見受けられる。

例えば、竹中平蔵とその仲間達は、いかにも似非自由主義者的なスローガンをいろいろと掲げている。自由化を推進して市場経済にできる限り介入しない、一見リバタリアン的な政策を主張する。

他方で、似非自由主義から転向した(らしい)中谷巌は、竹中らの路線を「新自由主義」と呼んで、これを徹底的に批判している

どちらも、同じ穴のムジナだ。竹中は「三権分立を取り戻せ」などと、もっともらしい政府批判を展開している。たしかに、個別の議論は合理的に聞こえるのだが、ラディカルな問いかけに根ざしていない。三権分立がもし回復したなら、それで良いのだろうか。何も良くないのだ。それは、民主主義の完成ではあるかもしれないが、民主主義の決定的な欠陥は放置されたままになる。そもそも、代議制自体がマヤカシ、インチキなのだから、それを磨いて良く見せかけたところで、良くなるはずがない。議員は国民の代理でも代表でもない。人気投票で高得点をあげた人間というにすぎないのだ。

もし議員が国民の代理人だったなら、国民一人一人、それぞれの言うとおりに国会で発言し活動してもらわなければ困るではないか。現実は、彼らは勝手に自分達の好きなことをやっているにすぎない。彼らは誰の代理でも代表でもなく、勝手に税金を使って高速道路を作ったり、「国立メディア芸術総合センター」などを作ったりしている。代議制の民主主義というのは、壮大なペテンだ。多数者による専制にすぎない。個人の自発的な合意に基づかない、民主主義を偽装する制度なのだ。

また、中谷巌は「そこで私は『還付金付き消費税』方式を提案しているのです。消費税を一律20%にする代わりに、年収1000万円以下の世帯には年間40万円を還付する。 これだと、年間消費が200万円の世帯は、差し引き消費税がゼロということになります。200万円未満の世帯は還付金が消費税額を上回るので、貧困層の所 得をかさ上げすることができます」というコメントを社民党の記事で語っている。

まず、税務署員や国税庁職員の人件費及び徴税に必要なコストを考えてみよう。次に、所得税も消費税もゼロだった場合を想定してみよう。税金がゼロなら税務署も国税庁もすべて不要になる。コストもゼロだ。そして、税金がゼロだったら、あらゆる個人や企業にとってポジティブな経済効果がある。

また、財産権を強権で侵害して徴税する、税金という明かに非合理な制度を廃止することは、個人の自由を発展させ、経済的なインセンティブになりうる。なぜ、税金や政府をはなから前提にして議論をするのか。

上の中谷巌の例でいえば、なぜ、年間消費が200万円以上の世帯は事実上の消費税を支払わなければならないのか。なぜ年収が1,000万円を超える世帯には消費税が減免されないのか。合理的な理由は何もない。恣意的、裁量的な勝手な税率設定でしかない。それで、合法的に金銭を個人や法人から略奪することを合法としている現状は、恐ろしいほどの国家統制といえる。なぜ余計なコストを、そんなものに支払わなければならないのか。

「税金による富の再配分」は一見良い考えに見えるが、それをいう前に、税金自体が不合理だという根本問題を議論する必要があるだろう。政府や徴税制度の存在を常に安全圏に置いて、それを前提とする議論は不合理だ。

人間は政府の奴隷ではない。政府の貯金箱でもない。

いわゆる自称経済学者達の議論は、「新自由主義者」であれ「リベラル派」であれ何であれ、このように不合理な先入観に染まっているのだ。つまり政府の存在をはなから前提としている。だから、マッチ・ポンプになるのだ。永遠にお互いに責任をなすりつけ合っているだけなのだが、それによって、政府の権力と体制は安泰となる。

DOTは、このようなたいしたことのない経済学者達が行っているような議論には意味を感じない。
巷の経済学者はほとんど信用できない。

2009年6月3日水曜日

Government Motors

GMがChapter 11による破産手続きに入ったが、連邦政府が株式の60%を取得し、新たに300億ドルの支援をすることが発表された。つまり、計画的な破産であり国有化だ。

これによって、GMは精算されることはなくなり、再生に向けて活動を始めることになる。政府がそれを支援するわけである。政府としては、最悪の破局的状況である連鎖倒産と失業の増大を回避することができるという算段なのであろう。

しかし、この手法でこれまでに、Big 3の一つだったChryslerやAmerican International Group、Fannie Mae、Freddie Macなどの金融機関を国有化して処理してきたわけだから、もし社会主義という言葉が極端であれば、コーポラティズム(corporatism)と呼ぶことのできる状況になっている。

そして、GMの再生が困難になれば、その損失は新たな政府投資を必要とすることになる。

DOTの視点からみれば、これは政府による非常に偏った形での一部特定企業に対する金融支援であることは間違いはない。しかし、政府がこのようなパターナリズムを正当化することは、現実にはよくあることであり、典型的な政府の行動といえるだろう。その税金の使い方を批判することは間違ってはいないが、そこにはより大きな問題が隠されているとDOTは考える。

それは、金融危機や戦争やテロや、ありとあらゆる「危機」に乗じて、政府は政府権力の肥大化、国民の自由の制限、抑圧、負債の拡大と増税の正当化を行ってきたということだ。

そして、そのために政府は危機を自ら作り出してきたともいえるだろう。その典型が大恐慌とニュー・ディールであった。大恐慌以後の政府権力の膨張については、Robert HiggsのCrisis and Leviathanに詳しい。

騙されてはいけない。政府は危機の際に頼ることのできる救世主などではまったくない

政府は、危機の原因を作り、危機を巧みに利用し、情報を操作して、既得権の維持と権力の拡大を画策する。政府は、徴税による国民の富の収奪を正当化し、それを永続化しようとする企みを危機に乗じて成功裏に展開する。それが政府というものの遺伝子に書き込まれている。

「小さい政府」は似非自由主義者の幻想にすぎない。いや、似非自由主義者の偽善的スローガンにすぎない。DOTは「小さい政府」も「大きな政府」も求めない。

2009年6月2日火曜日

DOTにとって選挙とは?

与党は総選挙の時期をようやく探り始めたらしいが、そんなことはDOTには無関係である。

DOTと選挙との関係は? ない。ゼロ、零、何にもなし、皆無。あっさりとしたものだ。なぜ関係ないの? 有名な言葉を思い出せばわかる。

民主主義は多数者による専制である。
Democracy is tyranny of the majority.

Alexis de TocquevilleJohn Stuart Millが説いたこの言葉は明快だ。代議士はわれわれの代理人か? Noだ。代理人なら、われわれが指示するとおりに、議会で発言し行動しなければならない。彼らは勝手に自分たちの考えで行動しているではないか。選挙は人気投票以外のものではない。選挙で選ばれたからといって代理人として活動し始めるわけではない。

つまり、議会制民主主義なるものは、あたかも議員が国民の「代理人」や「代表者」であるかのうように偽装して、議員と官僚が好きなように税金と権力を使うための制度でしかない。個々人とのあいだでの自発的な合意と契約に基づかない「代理人」や「代表者」などありえない。

DOTと選挙に関係がないなら、DOTは誰に投票するのか? DOTはどの政党を支持するのか? これまた、答えは簡単だ。

好きにすればよい。
投票するもよし、棄権するもよし、好きな政党や議員に投票するもよし。

ただし、全体主義や極端な国家統制を指向する政治家が当選することを避けるために、より自由主義的・民主主義的な思想の持ち主に投票することは重要だろう。けれども、それら「よりましな」候補者を積極的に評価してのことではない。