2010年2月14日日曜日

「富の再配分」の虚偽を問う

人々は、あまりにも永く国家の存在に馴らされてきたものだから、一般人も経済学者も、はなから国家が存在するものとして考える傾向がある。ただし、マルクスだけは賢明にも国家の死滅を予言したが。

国家が徴税によって行う「公共サービス」を当然のことのように考える傾向があって、誰もが次のように言う。
国家=政府が無くなったら、誰が貧しい者を救うのか? 弱肉強食の世界になって、既得権者だけが支配する世界になる。だから、国家=政府は必要だ
一見、分かりやすい理屈だが、本当だろうか。想像力が欠如していないか?

例えば、800兆円以上の債務を負った今日の日本政府に、何をこれ以上支払わせようというのか? 

その支出は、現在だけでなく未来の国民の財貨から取り立てられる。あるいは財政破綻によってそもそもこれ以上の支出をし続けることが不可能になる時がくるかの、どちらかしかないのだ。

例えば、政府支出によって何かを通常よりも安く買えるようにしたと仮定しよう。それは市場に介入して、商品の価格に影響を与えるだけでなく、売り手と買い手の経済行動に影響を与えるはずだ。そして、その悪影響を抑制しつつ、それでもある程度の期間はその政策を維持し続ける必要が生じるであろう。その費用は、徴税による財貨の移転あるいは借金によってまかなうしかないのである。そして、本当に期待したとおりの商品の流通、価格の安定が達成できる保障はどこにもない。

最近の某大手自動車メーカー製のハイブリッド車のリコール問題が象徴的である。政府による価格への介入は、一方で需要を過剰に生み出し、他方でそのしわ寄せが当該商品の品質や他の商品からの利益の減少などに現れる可能性がある。

つまり、政府による市場経済への介入は、それ自体が常に不完全であるにも関わらず、政府が強大かつ独占的な力をもつために、介入が成功しない場合の損失と影響は計り知れない。政府の施策は、市場における個別の交換が織り込むことのできる個別の諸条件に対応できるほど精緻に最適化され調整されているわけではない。いつも「一律何パーセント」の調子で適用される場合がほとんどであり、それは、常にアクセルを踏みすぎるかブレーキを踏みすぎるか、あるいは両方を踏むのと同じ結果を生み出すこともありうる。市場が不完全である場合があるからといって、政府が完全な対応がとれることにはならない。政府の力で経済をコントロールできるという信念にどれだけの根拠があろうか?

これまでの歴史をみて、一体政府の施策によって、恐慌や戦争やバブルや財政危機から完全に自由になることが保証された時代があったであろうか。常にそれらの危機的状況が発生し、政府が自慢できるのは、いつもそれぞれの危機的状況から脱出した一時期に過ぎなかったではないか。

しかも、そのような危機のたびごとに、政府はその規模を拡大し、個人に対する規制・監視を強化し、個人の自由を制約し続け、赤字国債を増大させてきたのである。政府に対する不寛容が今求められている。

収奪され続けてきた国民に、他者を扶助し、困窮する同胞を自発的に救おうとすることを期待することは難しい。国家による強制的な徴税と恣意的な税金の運用は、
むしろ個人の自発的な互助活動や寄付行為を困難にする。「政府の仕事」でしかなってしまうのである。

公共事業の配分を見てもわかるように、「富の配分」は常に政治的に行われる。本来救済されるべき人々に支払われるべき財貨は、より恵まれた階層や公共事業の恩恵を受けようとする企業や団体によってかすめとられるのである。「富の配分」を政治的に横流しするために、圧力団体が存在するのである。その政治活動の結果、本来の受益者でない者に対しても「富の配分」が行われる結果となる。「配分」を決める法案を通すには、圧力団体の意向を聞く必要がでてくる。しかも、国会議員が欲しいのは選挙での票であり、組織票や選挙協力なのである。

最初の疑問に戻ろう。
国家=政府が無くなったら、誰が貧しい者を救うのか?
> 人々がそれぞれ自発的に救うのだ。そのための自由と富を政府から奪還する必要がある。

弱肉強食の世界になって、既得権者だけが支配する世界になる。
> 否、政府や議会や圧力団体を利用して、税金をかすめ取る者こそが既得権者なのである。
それでも国家=政府は必要だろうか。


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