2009年5月24日日曜日

DOTは、自由主義とどう違うか?

自由主義者といって誰を思い浮かべるか。現代の日本なら、小泉元首相とか竹中平蔵氏とか昔の小沢一郎氏?

もし、あの手の政治家の思想を自由主義というなら、DOTが指向するものとは天文学的に違う。英米のMargaret ThatcherやRonald Reaganなどについても言えることだが、あの手の「自由主義者」は、彼らの日常的な党利・党略の蠢く政治における戦術の出発点として自由主義を捉えている。つまり、他の政党との駆け引きによって政府をいかに使うかに役立つ「主義」なのである。彼らの仕事は他の政党や議員との競争に打ち勝って、予算を獲得して自らが主張する政策を政府にやらせることである。そして自らの政治的影響力を拡大することだ。しかし、彼らの存在自体が政府に依拠しているのだから、そこで構想される「改革」や「政策」は、政府と政府が行う施策を根底から革命的に変革するものとはなりえない。そもそも、そんな変革をやろうとすれば、何よりもまず、政治や社会のあり方を根本から、ラディカルに構想して理論武装しなければいけなくなる。そんなことをやっている政治家は今や世界中どこにもいない。彼らの「自由主義」は見慣れた、既にある「自由主義」であって、本来の自由主義の根本を見据えて、それを創造的に発展させようとするものではない。それは、永田町と霞ヶ関に都合の良い自由主義であり、財界に奉仕する自由主義であるに過ぎない(残念ながら、それにすら失敗しているのが現状なのだが)。

しかし、例えばアメリカ建国の父たち、例えばThomas Jeffersonにとって、自由とは、アメリカ独立革命によって新しい共和国を打ちたて、そこに市民による自由な共同体を築くことをとおして獲得されるものであった。そこには大きな思想と知的な戦略が必要とされた。その思想は、既成の政府や軍隊を超越した次元で、まずは構想される必要がある。なぜなら、自由とは政府や軍隊が作って人々に与えるものではなく、人々が自ら発見し、獲得し発展させるものだからだ。ある意味で、自由とは、自由を発見し、その意味を学習し、さらに拡張させる人間の潜在的で自己循環的な運動力なのであろう。

DOTはアメリカ独立革命におけるJeffersonの思想と実践の重要性を認める。それは、いわゆる自由主義とは異なる。使い古された「自由主義」やら「リバタリアニズム」やら「リベラリズム」を捨て去ったところに、DOTがある。



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