2009年6月14日日曜日

国民総背番号制に反対する

以前から議論のある、国民総背番号制を導入しようという声が高まっている。税の不公平をなくそうという観点からの賛成意見である。主な主張は、以下のような記事に典型的だ。

【ネット時評 : 前川 徹(サイバー大学)】
「総背番号制」に反対するのは誰か?――年金騒動に思う

この手の議論は、似非自由主義者の十八番だ。彼らがいうところの効率化や合理化は、すべて政府の支配を効率化し、合理化することにつながるのだ。また、それによって、「小さな政府」を実現する一つの手法として、年金や福祉に関する複雑な処理を簡素化した税制に集約することで、例えば負の所得税ベーシックインカムなどによる富の再配分を効率的に実現できるという主張である。

DOTはこう考える。こんなものはすべてマヤカシだ、と。

なぜマヤカシなのか。なぜなら、租税自体が、マヤカシだからである。何のマヤカシなのか、それは合法的な窃盗であり強権による国民の富と労働の収奪だということを、政府が何か良いことを行う仕組み、そのための国民による寄付であるかのように偽装しているからである。寄付なら、払わない自由があるはずだろう。

課税自体が、自発的な合意による交換を原則とする自由主義経済と明らかに矛盾する。ベーシックインカムなどという、つまりは、一種の累進課税に過ぎないトリックが、市場経済と矛盾することはいうまでもない。

似非自由主義者(つまり自称リバタリアンや俗称「新自由主義者」、実は「国家統制主義者(statist)」)たちは、国民総背番号制による「税の公平性」と引き替えに、国民の財産権を収奪する徴税の効率化という政府の犯罪的行為に加担する愚かな陥穽にはまっているのだ。しかも、それに気づいていない。

合意による交換に基づかない取引が富を生むことはありえない。政府による「富の再配分」自体が非効率で無駄につながるのである。

さらに、政府の徴税官吏に個人の商活動や日常の購買活動まで監視される危険のある技術的な仕組みを与えることが、個人の自由を制約することにつながりかねないことは自明だろう。

裁判員制度も、国民総背番号制も、すべて、政府による個人の管理と、自由の制限、国民の富の収奪のための恐るべき武器なのだ。騙されてはいけない。

税の不公平を解消する唯一最善の方法は、税をすべて撤廃することである。

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