2009年6月26日金曜日

DOTの絵画論序説



横山大観(1868~1958)が男爵・大倉喜七郎がスポンサーしたローマでの日本美術展覧会に出品した大作、『夜桜』は、絢爛豪華な色彩と暗闇との対照を見事に描いている。力強く、伝統に根ざしながらも真に新しい日本画の創造という大きな課題に取り組んだ横山大観の意志があふれるばかりである。

しかし、この大作は、それ以前に富田渓仙(1879~1936)が描いた『祇園夜桜(1921)に触発されている、といわれている。実際、渓仙死後、大観はこの作品を買い取って、死ぬまで愛蔵したという。

渓仙の才能を賞賛していた大観は、渓仙の夜桜の凄さがよくわかっていたはずだ。この2つの夜桜は、まったく異なる印象を与える。渓仙の作品に、大観作品のような華やかさはない。表面的な力強さにも劣る。渓仙作品は大観作品が屏風であるのと違い、画面も小さい。

しかし、渓仙の『祇園夜桜』には、夜桜のはかなさが見事に表現されていて、深い余韻が感じられる。それは、大観もまた、主題の華やかさと対照させるようにして描こうと意図していたものに違いない。しかし、どちらが成功しているかといえば、やはり渓仙作品に軍配が上がる。

力強い意志と画才、技量によって、巨大な画面を支配しコントロールしようとする大観の作品もまた傑作であることに違いはないが、その強い意図・意志の力が、目標達成寸前のところで、逆効果となっているのではないか。画家が画面をすべて支配しようとすると、罠にはまる。画家の意図の及ばない部分が画面には必要なのではないか。

渓仙作品にあっては、画家の意図や意志は、表面的には強く打ち出されていない。しかし、深い背後の暗黒の内に隠されている。それによって、夜桜がもつ華やかさとはかなさという二面性が、対照的にしかし間接的に見事に表現される。

何らかの情趣を、直接的に、あからさまに表現することなく、しかし結果的にいかに鑑賞者に伝達することができるか。ここに視覚芸術におけるコミュニケーションの秘訣がある。

これが、DOTの絵画論序説である。

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