2009年6月6日土曜日

究極の悪徳

オーストリア学派の経済学者Murray N. Rothbard(1926–95)は、政府が国民から富を収奪して、それを裁量的に「再配分」することに関連して、次のように書いている(日本語試訳はDOTによる)。
経済資源のもっとも重要な性質はその希少性である。土地、労働、資本財などの要素はすべて希少であり、種々の用途のために活用される。それを自由市場が「生産的に」使用することができるのは、消費者が必要とするもの(例えば、馬車ではなく自動車)を生産するように生産者が市場で誘導されるからである。したがって、民間セクターの全生産量の統計は、数字を足しただけのもの、生産量をある単位で数え上げただけのものに見えるかもしれないが、実は、その生産量の計測値には、消費者が購入したいと欲するものが「製品」なのだという、重要で定性的な判断が含まれている。市場で100万台が販売される自動車が生産的なのは、消費者がそう理解しているからなのである。そして売れ残った100万台の馬車は、「製品」になれなかったもの、だろう。消費者はその横をただ通り過ぎるだけだったに違いないのだから。
(マリー・N・ロスバード著『公共セクターという虚偽』)

One of the most important features of our economic resources is their scarcity: land, labor, and capital goods factors are all scarce, and may all be put to various possible uses. The free market uses them "productively" because the producers are guided, on the market, to produce what the consumers most need: automobiles, for example, rather than buggies. Therefore, while the statistics of the total output of the private sector seem to be a mere adding of numbers, or counting units of output, the measures of output actually involve the important qualitative decision of considering as "product" what the consumers are willing to buy. A million automobiles, sold on the market, are productive because the consumers so considered them; a million buggies, remaining unsold, would not have been "product" because the consumers would have passed them by.
(Murray N. Rothbard, The Fallacy of the "Public Sector")
これが意味することは明快だ。Sheldon RichmanがThe Wizards of Washingtonという直近の記事に書いているように、政府が「民間セクターから金を巻き上げて、それによって『雇用を創出』したり、恣意的かつ裁量的なプロジェクトに投資したりすることは、真に生産的な活動ではない」、ということだ。

つまり、そのような政府の活動は、消費者に何ら奉仕しない。生産者と消費者双方に、新しい有益な価値を何も生み出さない。市場に介入することで、非効率と無駄を生み出す。

そして、その裁量的な「投資」や「融資」や「再配分」に影響力を有するのは、常に「政治」であって、それは一部の既得権益を有する企業集団や特権的な階級・階層を利する結果になるのが常である(国家独占的なコングロマリット、ゼネコン、軍需産業や天下り等々)。

巷間、「バラマキ」とか「政府の無駄遣い」などと称されているものの、これが本質なのだ。それは、単なる税金の無駄遣いという以上に悪質だ。政府というものが生来的に有する悪徳なのである。

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